遊ぶように仕事をする

ワークショップという仕事の形式が流行っているのだろうか?
あちこちでワークショップという言葉を耳にするようになった。

ただ、なんでもかんでもワークショップにすればいいというものでもない。

仕掛けのないワークショップほど、時間の無駄になるものはない。
また、ワークショップの仕掛けそのものにロジック的な破綻があると参加者の作業・思考は混乱するので、これまた無意味だ。

ここで無駄だとか、無意味だとかいっているのは、ワークショップが仕事にならない、学びの場にならないという意味だ。

仕掛けを企画し設計する

ワークショップを意味あるものにしようとすれば、それなりの企画と設計がいる。
ただ場所と時間をおさえて人を集めればよいというものではない。適当に作業のテーマを与えて、時間を区切って作業させればいいわけではない。
それで準備ができたと思ってはじめてしまうからワークショップは失敗するのだ。

何を目指し、どうやってそれを達成するのかが考えられていないのに仕事が成功する訳はない。それはワークショップにおいてもおなじだ。
ましてや、普段知らない者同士が複数人集まって行う仕事なのだからなおさらのこと。個人や普段も仕事をしている同士なら、阿吽の呼吸やらなにやらでうまくいくことも、見知らぬ他者同士が集う仕事の場ではそれはうまくいかない。

ワークショップをうまくいかせたいと思うなら、それを実施する目的を明確にし、具体的なゴールを決め、それを達成するための適切なプロセスと手段や素材を提供しなくてはいけない。
また作業がきちんと動いていくような適切な触媒となるものをどのタイミングで何をどう投じるかも考えなくてはいけない。

どういう仕掛けで目的とゴールが達成されるのか、その仕掛けを企画し設計されていなければ、ワークショップが成果につながることはありえないのだ。

そうした仕掛けの企画も設計もなく、ただなんとなく行われているワークショップがある。はたまた仕掛けは設計されていたとしてもそれが目的にあっていない場合もある。残念ながらそれではうまくいかない。これは僕自身、何度か経験したことだからよくわかる。
自分たちが目的とするものに対して、さらにはそこに参加するメンバーや時間や場所の制約にあわせて、適切な仕掛けを企画・設計しなければ、ワークショップの時間は無駄になる。

遊ぶように仕事をする

結局、ワークショップというのは遊ぶように仕事をする場である。遊ぶように学ぶ場だ。

茶の湯の席であり、サッカーや野球のゲームの場である。決まった遊び方があり、ルールがある。必要な道具や場を設えるのにも決まりがある。その決まりのなかで参加者は自由に遊ぶ。決まった制約があるからこそ、自由になれるのだ。
ワークショップもそれと変わらない。きちんと仕掛けを設計して決めるから、参加者が自由に遊ぶように仕事をすることができるのだ。

『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』で書いたようにワークショップの場を作るために大事な要素は「覚悟、作分、手柄」である。

これを「職場の作分」と呼んでみたい。作分とは、作為・工夫のことをいいます。職場の作分はデザイン思考でグループワークを行う場をつくるための工夫です。働く場のデザイン、場のクリエーションといってもよいと思います。つまりは個人の場合に場と作法に着目したのと同じで、グループで作業を行う場合の場と作法に着目するのです。

覚悟はそのまま心の持ちよう、手柄は経験や実績である。残りの作分は、ワークショップの場の設計・演出にあたる。作分は、さらに結構、手続き、趣向に分けられる。結構は空間としての場所づくり、手続きは式次第やプロセスのようなもの、趣向はそうした結構や手続きなどの時空間を遊びの場として演出し盛り上げるためのまさに趣向だ。

こうしたものをあらかじめ企画、設計したうえで、さらに覚悟と手柄をもってワークショップに臨む必要がある。

まぁ、おわかりの人はおわかりだと思うが、これはワークショップに限ったことではない。通常の仕事でも同様だ。遊ぶように仕事をするというのはそういうことだ。いかに自ら制約をつくりだし、そのなかで自由に遊び尽くせるか。

どうやら遊び方を知らなさすぎる人が多いようである。



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