良くないことというのは、自分でも簡単に再現することができるから、自分がやらずに我慢しているかもしれないことを他人がしているのを見ると文句をいいたくなるのだろう。いや、それ以前に単に自分のことは棚に上げて文句をいっているだけの人のほうが多いのかもしれない。
逆に他人の良いところを褒めるというのはむずかしい。褒める以前に他人の良さをみつけだせない場合が多いのではないか。
それはひとえに見る目がない証拠だ。自分で良いことをする努力をしたことがないと、他人が良いことをするためにどれだけ裏でがんばっているかがわからない。自分のなかで経験がないから他人の良さがみえないのだ。
良さを見抜く目が養われていないと、他人の良さをみつけることができない。
もちろん、それでは他人から学ぶということもできない。結局、自分の殻に閉じこもったまま、他人を、外の世界を見つめることができない。いや、自分自身を見つめることができないから、何も変わらず何も学べないのだ。
見る目がないというのは想像力の欠如のこと
人は自分がわかっていることしか感じられない。感じるからわかるのではない。わかっているから感じられるのだ。他人の良さを感じられるのは、自分でもその良さがわかり、それが自分でも再現できる可能性をもっているからだ。
他人の凄さを見抜くには、自分もそれなりに努力して、少なくとも凄さの手前まできている必要がある。凄さの手前で失敗した経験くらいないと凄さを感じることができない。他人の凄さを見てとることができない。つまり、他人の文句を言うばかりで、すこしも他人を見る目がない人になってしまう。
見る目がないというのは、ようするに想像力の欠如のことだ。他人を想像できない人が本当に増えている。いや、自分のすることの結果を想像することさえできなくなっている。
自分(の目)を見つめ直す
「おもしろいことないかな」ではなく「おもしろいことやりたいな」だというのは「おもしろいこと」で書いた。楽しいことと楽しくないことがあるわけではない。楽しむためには自分で考え工夫することでどんなものでも楽しくなるのだということを「楽しむための工夫」では書いた。
つまり、そうした自分で努力し、考える「応用力」が必要なのだ。
自分で考え努力する。それと同時に他人の考えや努力にもきちんと目を向けるのだ。
自分にとって気に入らない部分にばかりを目を向け、それに対して文句をいってるばかりじゃ、幼児と変わらない。他人のいやなところしか目に入らず、他人の良さがわからないのは相手の問題である以上に、それを見る自分自身の見る目のなさに問題があるのだということをちゃんと意識したほうがいい。
世界がどう見えるかはあなた次第なのだ。それがわからなければ世界が変わることなど、ありえない。
世界をみるということは、自分(の目)を見つめ直すということにほかならない。
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