僕は基本的に、結果はおもしろく、過程は楽しく、ということが仕事をするうえで大事なことだと思っている。
結果は自分だけでなく赤の他人がみてもおもしろく、それを為す過程は自分とおなじ仕事をともにする仲間が楽しくあるとよい。そう思っている。
もちろん、仕事なので辛いこともあれば、いやなこともある。
ただ、辛くても楽しい、いやなこともあれば楽しいこともあるという状態になるよう、自分で工夫しないといけない。辛いことやいやなことばかりであれば、仕事のモチベーションもあがらないだろうから、そこは自分で工夫して仕事が楽しくなるよう心掛けないといけない。
目標を定め、戦略を練る
仕事を楽しくする工夫にはいくつかあると思っている。1つには、計測可能な目標をつくることだと思う。
数値目標は、売上でも、なにかの作業を完了する件数でもいい。
数値目標をつくることで、それを達成する過程をゲーム化するのだ。
そして、目標を立てたらそれを達成するための戦略を練る。ただ単にぼんやりと努力するというのでは、楽しくはならない。ゲームとして楽しむためには、自分で考えて戦略を練ることが大事だ。
目標達成のための仮説としての戦略を立て、その戦略を実行しているあいだで、その戦略が正しいかどうかを検証する目で自分の仕事の結果を計測する。うまく行っていればよしよしと思うし、うまくいかないのであれば戦略をすこしいじってみたりすることになる。
ブログを書いている人であれば、実感できることだと思うが、自分の書いたブログの結果でアクセス数が増えたり減ったりするのはなかなか楽しいものだろう。
基本的には仕事をするうえで目標を立て、それに向かって行動の仕方を変えるというのもおなじことだと思う。きちんと目標を立て、それに向かって戦略的なことを考えつつ、行動すれば仕事に楽しみができる。仕事をいやいややってる人は、それをしないから余計に仕事がつまらなくなるのだ。
制約条件をつける
もう1つの仕事を楽しむための工夫は、仕事をする際に制約条件をつけることだ。これも仕事の過程をゲームに見立てる1つの方法である。ロジェ・カイヨワは『遊びと人間』のなかでこう書いている。
規制の限界内での自由な反応を即座に発見し、創案せねばならぬ、そこにこそ遊びがある。ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』
野球やサッカーにはルールがある。鬼ごっこでもトランプでもそうだ。そのルールの制約のなかでいかに勝つかを工夫するところに遊びの楽しさは生まれる。
ただ、遊びの制約自体には意味がない。無意味だからといって、その制約をなしにするわけにはいかない。遊びにおいて制約をなくしたら遊びそのものが成立しなくなる。野球でバッターがボールを打ったあとに1塁ではなく3塁に走ったり、サッカーでオフサイドを無視して攻めたりしたら、ゲームそのものが成立しなくなり、途端に遊びはつまらないものになる。
ゲームを楽しむためには、制約を理解したうえで、その制約のなかでどう自分たちが自由に振舞うとゲームに勝つことができるかを考えることが必要だ。
仕事においても大事なのは、この規制=制約を理解し、そのなかで自由を発見することだ。どう自分が振舞えばよいか、その振る舞いを規制するものは何で、その規制を厳守しつつも自分に与えられた自由をいかに有益に使い、結果を出すか。そこを考えないと仕事は楽しくならない。
予算やら納期やら制約ばかりでやりたいことができない。それをつまらないと感じているのは、ゲームというものがわかっていないのだ。ゲームは制約のなかでいかに結果を出すかというところにこそ楽しさの本質がある。
工夫をする=考えて自分のものにする
仕事そのものがつまらないのではない。仕事への取り組み方が仕事をつまらなくさせているのだ。仕事を他人から与えられたままにやっている分には、仕事が楽しくなることなどはない。仕事は自分のものにできるから楽しむことができるようになる。そして、自分のものにするためには、自分で考えて、自分で工夫をしなければ、そうはならない。
もちろん、それでも仕事には辛い部分やいやな部分は残る。ただ、それは遊びやゲームでも楽しい半面、辛かったり面倒だったりする部分があるのとおなじだ。野球やサッカーをするのでも辛いことはいくらでもある。ドラクエをするのだって、面倒な手間をいくつもやっていかなくてはいけないだろう。
仕事においてそうした負の部分をなしにしたいと思っても無駄だ。負をなくしたいというところに目を向けるからだめなのであって、負は仕方がないと思いつつ、いかにそこに自分なりの楽しみをつくる工夫ができるかどうかだ。
繰り返すが、仕事そのものがつまらないのではない。
仕事への取り組み方が仕事をつまらなくさせているのだ。
考えない人は楽しむことができない。楽しむというのも1つの能力だから。
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