応用力

応用力が足りない。教科書通りにしか物事を進められない人が多いように思う。

対処すべきケースが教科書通りならなんとかできるが、教科書には書かれたのとは異なるケースに出くわすと途端に立ち往生もしくは出鱈目なアクションとなる。
世の中、教科書通りには事が運ばないケースの方が多いから、なかなか仕事が進まない。あるいは出鱈目なアクションで、それ、本当に仕事したことになるの?と疑問に思うことも。

基本を応用して、パーツとなる手法を組み合わせながら、問題を解くという創造力が書けている。そういう頭の使い方に慣れていないのかな、と。

基本を理解すること

応用力に欠ける要因のひとつは基本が理解できていないことだと思う。ある問題を解くのになぜその方法を用いるのかということを理解せずに、ただ教科書に書かれた通り、こういう問題の場合はこの方法を使うと機械的に覚えてしまっているから、すこし違って見える問題にあたっただけでも方法を応用できなくなる。

とうぜん、基本がわかっていない方法同士の組み合わせができない。レシピに書かれた手順どおりにしか料理ができないと、ちょっと素材が違ったり道具が足りなかったりするだけでも料理ができなくなる。それおなじで、問題がすこし異なったり、使えるリソースに制約があって自分の知っている教科書通りのプロセスでは物事が運べないとわかると、思考停止となる。
そうではなく、料理をするということの基本と、手持ちの道具や方法がどういうものかをちゃんと理解できていれば、教科書とは異なる問題や素材を前にしてもおじけづくことなく応用力を発揮して問題に立ち向かえるはずである。

そうではなく基本をちゃんと理解せずに表面的なレシピや方法論を機械的になぞるだけだから、応用ができないのだ。

アイテムを増やす

とはいえ、応用力を発揮するためには、基本を理解しておくことだけでなく、手持ちのアイテムをたくさん増やしておくことも大切だ。

アイテムには大きく分けて2種類ある。

1つは誰もが共通に取得できるアイテム。方法論だったり、いろんなニュースだったり、本やインターネットに書かれた知識だったり。これらのアイテムの数を集めておくことも大事だと思う。ただし、基本の理解がなくては、これらをいくら集めても宝の持ち腐れになるだろう。いくら冷蔵庫のなかに素材が豊富に入っていても料理の基本知識と腕が伴わなければ、腐らせるだけなのといっしょだ。

もう1つのアイテムは経験だろう。これは個々人でとうぜん違う。こっちのほうが重要なアイテムだと思う。なぜなら、この経験がなければ自分自身のアクションを、そして、自分自身のアクションの結果生じる物事の変化を、評価することができないからだ。料理の味がわからなければ、なかなかうまく料理をつくることはできないだろう。

基本を理解することと同時に、この2つのアイテム蒐集を怠らないこと。それが応用力を伸ばすために必要なことではないだろうか。

はまるか/はまらないか

それにはともかくやってみることが大事だ。

おもしろいこと」というエントリーで、やるか/やらないかがおもしろいことができるかどうかにとっては重要だと書いた。いや、それ以前に『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』では、さんざんそのことを書いて、では、どうすればよいかという処方箋的なところも書いている。

ここでさらにその上に、はまるか/はまらないかという基準を加えてみたい。

物事の上達のためには、はまってみることが大事だと思う。
集中してひとつのことにはまってみる。

例えば、僕なら、人間中心設計というものにはまってみたのが、ここ2年くらいの自分のなかのブームのひとつだろう。いろんな本を読んでみたし、実際に自分でやってみたし、人に教えるということも、本を書いたりすることもやってみた。そうやって、はまって集中していろいろとみるから基本が理解できてくるし、2種類のアイテムもともに揃ってくる。そうするうちにだんだんと応用力もついてくる。自分ではようやく守破離の段階の「破」に足が届くようになったかなと思えている。

subjectである自分を認める

はまるというのは、誰かにやらされている感でやるのではない。誰かにやらされるか、動き方のアドバイスや参考となる事例をみせてもらえないと動けない人が多い。自主的に動くということにそもそも慣れていないのかもしれない。

かといって、はまるということが完全に主体的にやっているかというとそうでもなく、自分以外の何か、そうきっとはまっている対象そのものに突き動かされているような面もあると思う。それが『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』で書いた「自分の外に出る」ということでもある。

自主的に動くというのは、ある意味ではsubjectである自分を認めてみることかもしれない。
これはヴィレム・フルッサーが『サブジェクトからプロジェクトへ』で指摘した歴史的な流れをある意味積極的に反転させることになる。そう歴史の流れに自然と身を任せていたら、自分はsubjectではなくすべてを人工的に自己投影しなくてはprojectとなる。これはこれで窮屈すぎるはずだ。

話が逸れたので元に戻す。
基本が理解できていないうちは、そうやってはまってみることが大事だと思う。はまっているうちに基本が身につくのだと思うし、はまるということ自体、得体のしれない基本というものを探る道のりなんだろうとも思う。

とにかく、そうやって自分の応用力を磨くことが肝心だ。
そうでなくては、素人じみた教科書どおりの回答ばかりで世の中があふれかえてしまう。それではちっとも世の中がおもしろくない。

自らおもしろい世界を切り拓いていくためにも応用力を高めていく努力を惜しむ理由はこれっぽちもないだろう。

 

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この記事へのコメント

  • little hanashyo

    はじめてメールさせていただきます。私は江戸切子の製造・販売のビジネスを行っています。
    以前のブランドに関するブログも共感を得ましたが、今回の「はまること」という部分にはさらに関心を持ちました。職人は「技術にはまること」を生涯行っていく職業です。そのため「技術からデザインを発想してみたり「仕事の方向性導きだしたり」
    「作り手」だからこその発想を行っていますうし。
    その部分を、私も伝えたいと思い、職人による「発想」に関するセミナーを開催しています。
    大変ヒントになることでしたので、ついついコメントをさせていただきました。ありがとうございます。
    2009年10月04日 11:01

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