オフィスの外の通路の片隅に設けられた喫煙スペースで、ニコニコしながら煙草をふかし、そう口癖のようにひとり言をつぶやいていたのは、前に勤めていた会社の社長でした。
僕は、その言葉をきくと、なんだか安心できたものです。
その言葉は何度も耳にしましたが、もちろん「おもしろいことってなんですか?」なんて野暮なことは訊ねたことはありません。訊いて答えの返ってくるようなことは、たぶん、耳にしてもおもしろくない気もしたからです。それよりも、その社長がおもしろいと思うことに協力できれば、と思えて、それが自分自身の仕事に対する安心につながったのだろうと思います。
おもしろいことをやりたい。
そのおなじ言葉をいまの会社の直属の上司の口からも耳にします。前の社長とおなじで、別段僕に対して同意を求めるようにいうわけではありません。ただ僕がいるところで、僕に聞こえるように、ひとり言のように言う。年齢もちょうど前の会社の社長とおなじくらい。どことなく似たところをもっているなとも感じます。
それを聞くと、僕自身もやっぱり前とおなじように、そのおもしろいことができるよう貢献しようと思えてくる。そうすると、仕事をする意味もみえて安心します。
「おもしろいことやりたいな」と「なにかおもしろいことないかな」
ある程度年齢のいった方がひとり言のように「おもしろいことやりたいな」とつぶやくのを聞くと安心するのと反対に、そのことばを耳にすると不安になるのは、若い人もしくは同世代の人間が「なにかおもしろいことないかな」と同意を求めるような調子を含みつつひとり言をいうときです。似たような2つのことばですが、耳にしたときの印象はまるで違います。
その印象の違いはなにより「おもしろい」ことに対する向き合い方の違いから来ています。
「おもしろいことやりたいな」という場合は、おもしろいことはそれを口にする人にとって自分がやるべきことと認識されています。一方、「なにかおもしろいことないかな」という場合は、おもしろいことはそれを口にする人にとって自分の行動とは関わりなく、どこかにすでに存在していることが想定されています。前者が自分が能動的に関わらないとおもしろくならないと考えられるのに対して、後者は受動的におもしろいものがどこかから来るのを待っているところがあります。
やるか/やらないかと、あるか/ないかの違い。
おもしろさには逸脱が不可欠
でもね。僕は結局、おもしろいことにありつけるのは「おもしろことやりたいな」という人の方だと思うんですよね。「なにかおもしろいことないかな」という人のほうは滅多にその願望が満たされることはないと思います。だから、僕の方も「おもしろいことやりたいな」という人と仕事をいっしょにしていると安心ができるし、「なにかおもしろいことないかな」という人が身近にいると不安になるんです。
僕は、おもしろいことに出会うためには、ある種の逸脱が必要だと思っています。
日常からの逸脱、当たり前からの逸脱。そして、前提としてそうしたものから逸脱するリスクを負う勇気だの覚悟だのが必要だと考えています。
読んで大傑作だと感じたから絶対に紹介しなくてはと思いつつ、まだ書評が書けていない高橋睦郎さんの『遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ』では、日本におけるかつての遊びには、追放に端を発するさすらい、逸脱が不可欠であったことに目を向けている点で非常に興味深かったです。
スサノヲは反逆し、新アマテラスは反逆者スサノヲを追放する。言い換えれば、スサノヲは遊び、新アマテラスは遊ばない。この役割分担が動かなければ、それはそれで収まりはつく。しかし、新アマテラスの後継者であるホノニニギは、いったんスサノヲ的擬態を取ることでカミアソビをしなければ、新アマテラスの後継者になれない。というのは、女神である新アマテラスの後継者になるというのは表向きで、そのじつ男神である旧アマテラスの後継者にならなければ、この国を統べることはできないからだ。この矛盾を体現しているのがヒルコという呼称で、陽的には日のみ子、陰的には蛭子すなわち汚れた者・追放されるべき者を意味する。
この本では、和歌の祖としてのスサノヲ、連歌の祖としてのヤマトタケルがともに逸脱者、さすらう者としての神(あるいは神の子孫)であったことに着目されます。そして、そうであるがゆえに、その後の遊びを司った西行にせよ、芭蕉にせよ、旅にさすらう道を歩んだし、旅におもむかずとも日常からの逸脱のために一休のような破天荒な生活をおくるものや、伊勢物語の作者かつ主人公と目されることもある在原業平が、その物語で描かれる「あるをとこ」同様に禁忌(伊勢斎宮との密通)を犯すことを頂点として数々の色このみの伝説で彩られているなど、遊ぶ者には常に日常や一般社会からの逸脱、さすらいなど、アウトサイダーな面をもつことが求められたというのです。
あまのうずめのストリップ
おもしろいということを考えるためには、これまた最高におもしろい一冊である高山宏さんの『かたち三昧』に書かれたこんな一文もなかなか考えるところがあります。面白いが、猿女天宇受売命(さるめのあまのうずめのみこと)による天の岩屋戸を開けるための日本初の裸(ストリップ)ショーで、こじあけられた隙間から漏れ来った太陽女神の燦爛たる光で、鼻の下をのばしきった神々のしまらぬ笑い顔が闇中に浮いて、いやあ面が白いこと。というので面白しというようになった。記紀の概念縁起話中に、ぼくなど随一に好きな挿話だ。面白い、といえば可笑いだが、これも元は「犯し」から来た何とも神聖なる言葉だ。高山宏『かたち三昧』
面白いが元はあまのうずめのストリップショーという性の場で顔(おもて)を輝かせたことをいい、可笑しいが犯しであったことなど、先の高橋睦郎さんの遊びの話と通じるところが多いのがおもしろい。
これがまた実は日本に限った話ではなく、ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』やロジェ・カイヨワの『遊びと人間』などを読むとよくわかるのですが、その話をはじめると、本来の話の流れからそれこそ大きく逸脱しすぎてしまうので、このあたりで元の話に戻します。神神とともにアソブ
こうした話をいったん忘れたとしても、遊びとかおもしろさには、日常からの逸脱という面が欠かせないのだと思います。人はちょっといつもと違うことがあると興味をひかれるし、おもしろいと感じます。他人のスキャンダルが注目を集めるのもそうした面があるでしょう。
今日も先週に引き続き、ユーザー中心のデザインのワークショップの講師をしてきましたが(内容についてはまた別途エントリーを立てます)、参加者の人から「おもしろかった」という声が聞けたのも、普段の仕事で体験していることとは別の新しい体験をする場を提供できたからだろうと思っています。
ちなみに今日のこのエントリーを書こうと思ったきっかけも、参加者の方の「おもしろい」という声が聞けたのがきっかけで、僕のほうも参加者の皆さんからまたひとつ勉強させてもらえたと感謝しています。毎回、おなじ内容のワークショップとはいえ、参加者が変わることで毎回違う体験ができ、僕自身も1回ごとに新しい非日常的な体験ができておもしろい。まぁ、僕自身も毎回違う参加者の型になにかしら有益なものを得て帰ってもらおうと、それなりのリスクも引き受けつつ対応しているから、得るものがあるのだろうな、と。
そう考えると、やっぱりおもしろいことというのは単に待ってれば手に入るものではなく、自分からある程度のリスクを背負う覚悟を決めて積極的に動かなければ、本当のおもしろさというのは手に入らないものなんだろうなと思うのです。
待っているだけでは、傍から見ておもしろそうだなと思うことには出くわせても、しょせん、そのおもしろさを傍から見ておもしろがるくらいしかできないでしょう。
とはいえ、日常を積極的に逸脱するというのは口でいうほど簡単ではありません。それなりに力をもった人でなければ、すこしの時間でも日常を捨てて遊ぶことはできません。そして、リスクを背負って日常を捨てて遊べる人だからこそ、新しい価値の創出やイノベーションが可能になるのだと思うんです。国語におけるアソブはほんらい神の動詞だった。神神の行動はすべてアソブで表現しえた。このアソビに人間が関わる方途はただ1つ、神神をアソバせることを通じて神神のアソビを真似び、これを神神の世界から人間の世界へ降ろすこと。このとき、アソビの主体である神神は人間の世界に流謫し、さすらったことになるだろう。
自分自身では遊ぶ力がない人が遊ぶためには、せめて力ある人の遊びを学び=真似び、その人が遊ぶ力になることで自らもその人とともに遊ぶことを考えることが必要なんでしょうね。
日常の既成概念にまどわされずリスクをとって遊ぶということがどういうことか。先人からよく学んで、ともにその体験を共有させてもらうことで、イノベーションとは何か、新しくおもしろいことを実現するというのはどういうことかを知っていくのでしょう。
まぁ、そういう体験を数多く積めば、いつか自分自身でも積極的に遊ぶことができるようになるかもしれませんし。もちろん、それには腹をくくる覚悟も身につけなくてはいけないんですけどね。
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