酒井健さんの『バタイユ』
そして、おそらく僕がバタイユに惹かれるのもそこに要因があるのだろうと思います。
脱自、共犯関係、見世物として恍惚や笑いなどの情動をひきおこす供犠、主体の半壊状態を通して得られる個を超えた交流的な体験。
こうしたキーワードによって、個―個人、私企業、国家―の延命に重点が置かれる近代が忘れ去った、個を超えた全体としての生の連続性に注目し、それを近代の世に知らしめようとことばを紡ぐバタイユに、僕はつよく惹かれるのです。
バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように。イメディア(直接的な生の交わり)を欲しつつ、メディア(媒体・複製技術)の力を侮ってはいけない。夜のなかの生を語るバタイユの呻吟は私にそう教えている。酒井健『バタイユ』
「物の力」「言葉の力」への警戒。
これだけでもバタイユが僕の思考と共感するのをなんとなく感じてもらえるのではないでしょうか?
それでは、すこし酒井健さんの『バタイユ』
物質の内的諸力に対する鈍感
バタイユは第一次大戦後の時期に、シュールレアリスムの芸術家や、考古学、文化人類学の研究者の文章を掲載した学術雑誌『ドキュマン』の編集・発行を行っていました。以下に、日本語の『ドキュマン』の総目次が公開されていますので興味のある方は参照ください。→『ドキュマン』日本語総目次(PDF)。
この『ドキュマン』の1930年の1号に、バタイユは「低い唯物論とグノーシス」と題した論考を掲載しています。バタイユはここで一般的なグノーシス派研究者からみれば異端とも思えるグノーシス論を展開していると酒井さんは指摘しています。
グノーシス派のとくにエジプトの人々は、物質に対して鋭敏な感覚を持ち、物質の内部に潜む諸力の混淆をよく把握していた。それに対し、近代人は物質を形で捉える。近代人にとって物質とは第一に物体の問題であって、近代人は物体の外形を視覚で捉え、それを理性で処理していく。分類したり比較しながら、より大きな物体の生産に利用していく。近代人は、それゆえ、物体相互の底に流れる物質の内的諸力に対しては鈍感だ。酒井健『バタイユ』
物を静的に捉える近代人。静的に、というのは、言語的に、とも言いかえることができるし、デジタルに、と言ってみることも可能かと思います。「理性で処理していく」、「分類したり比較」したりというのが当っているでしょう。その視点からは物質本来がもつ動的な力がこぼれおちていきます。
バタイユは、言語やデジタル、理性的な見方という特徴をもった近代的視点に、世界の物の見方が一元化されてしまう傾向があるのに警鐘を鳴らしています。
非―知
バタイユの「物の力」「言葉の力」への警戒というのは、物事を人間的に固定化してみてしまうことへの警戒であるといえます。それは言い換えれば、知的に捉えてしまうということへの警戒でもあるでしょう。「わからない」にこだわるというのは、僕がここ最近、このブログのエントリーで集中して題材にしていることですし、『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』
著者の酒井さんは、バタイユの「非―知」について書いています。
知の衣を脱がす、あるいは切り裂くことこそが、非―知の第一の働きである。そうなると、人は不安に駆られるが、その不安を笑い飛ばすというのも、非―知の働きにほかならない。そしてさらに非―知は恍惚を伝達する。恍惚とは、西洋語の原義では脱自つまり自分の外に出ていくことである。酒井健『バタイユ』
脱自―自分の外に出る。これもまさに『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』
そして脱自を可能にする「非―知」の働きを、恍惚とか、不安を笑い飛ばすことにみているのは、非常に納得がいきます。それは自身のアイデンティティを超えて、もっと大きな生のなか、ダイナミックな物質の世界に忘我の境地で溶け込んでいくことにほかならないのでしょう。
そのとき、不安という個の意識を超えた、笑いを誘う自虐的でもあるユーモアが発生する。それは知によって世界を捉えることを超えて、忘我の笑い・恍惚を通じて世界と交わることなんでしょう。
生の連続性
この忘我、脱自というところから、個体の生を超えた生そのものの連続性が開けてくるとバタイユは捉えていたらしい。知というのは、ある意味では何より自身の外の世界の境界をつくること、違いを知ることにほかなりません。それは誰でも幼児期に体験していることで、幼児は自身と他者の違いを理解するようになることで、他者を知り、それを通じて自己の存在を理解していきます。
その意味でアイデンティティとは、自身がみずから設定した自分自身と外部との境界であり、自分の限界でもあるわけです。
バタイユが生というものを考えるとき、こうした限界に押し込められた個体の生を重視しません。個体が自身の生の不安をかき消すために設定する限界を超えて、さらに限界そのものによって可能になる知=世界の認識のひとつの方法を超えて、非―知を目指します。
人間は個として生き延びていくためにはこの自我の限界を大切に保持していかねばならない。バタイユもそうする。しかしそれに甘んじ続けることができずに、自我の限界を半壊状態に追い込むのだ。死なずに死んで、自我の限界を引き裂き、その限界線上から外に向け定めなく広がる「不確定な現実」を生きるのである。限界を引き受けつつも、それに耐えられずにいる無数の存在者たち、存在物たちの現実と交わるのである。酒井健『バタイユ』
「不確定な現実」を生きる。これは僕がずっと考えている「わからない」にこだわること、「わからない」を自分自身で受け止めることにもつながってくるものです。それは知という世界認識とは別の、世界の受け止め方なんだと思います。
もちろん、社会において生きていこうとすれば、非―知であり脱自的な世界認識ばかりを追いかけるわけにはいきません。恍惚と自虐的でもある笑いでは日常を生きることはできるはずがないのですから。
とはいえ、すべてを理性的な知で固定してしまう世界の認識だけで埋め尽くしてしまうことにも、バタイユ同様に危険を感じるのです。
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