2009年09月05日

人里離れた世界で感受性を養う

他人とのコミュニケーションに悩むくらいなら、いっそのこと、人間関係のことなど忘れて、いったんは誰もいない自分ひとりの世界に向き合ってみるのがよいだろうと思います。

そう思うのは、昨日の「やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな」でも書いたとおり、他人とのコミュニケーションに悩んでいる人の多くが、コミュニケーションそのものの能力以前に、人との関係性以前に、非人間的なもの、非生物的なものを含む世界との交感の基礎となる感受性のほうに問題があるだろうからです。

感受性というOSに問題があるのだから、いくらコミュニケーション力という個別のアプリケーションを機能させようとがんばっても自ずと限界が生じてしまいます。
その場合、やはり基本に立ち返って、OSである感受性の改善を優先したほうがよいだろうと思うのです。コミュニケーション力の向上という個別のアプリケーションの改善はそのあとでも遅くないし、むしろ、その順番で改善を行った方が効率的でもあるでしょう。

教育の現場でも、ビジネスの場の教育の場面でも、なかなか感受性の向上について考えられたり、具体的な改善活動に力をいれることはあまりないように思われますが、個々人にとってあらゆる知的活動の基礎となるOSである感受性を磨くにはどうすればよいかを真剣に考え、議論していく必要があるのではないかと考えはじめています。

人工的なものに囲まれた世界で

僕はそもそも現代人がこんなにも感受性を乏しくさせてしまった要因のひとつに、過度に人間関係的なものばかりに固執してしまう傾向があることがあげられるのではないかと思っています。

現代に生きる僕らは日々の生活を、人工の環境に囲まれて過ごし、コミュニケーションといえばまわりの人間との社会的関係性ばかりになってしまっています。自然環境との対話なしには成り立たない仕事である農業や漁業などにたずさわることもなく、ものづくりにしても自らの手で直接ものに接してつくるのではなく、機械的な製造、あるいは、もっとひどい場合デジタルでヴァーチュアルでものそのものが関わらない制作のみになってしまっています。それにより日々の活動からは、物理的なものがもつ非人間的な性質とのコミュニケーションの機会が極端に失われていたりします。
日常において料理や洗濯をするのにも、レシピをみて料理をしたり、全自動洗濯機で洗濯をしたりで、ものに直接触れるというよりも、紙面や機器に表示された(テキスト)情報とのみ接しているといえます。本を読むのでも、詩的にあいまいな面を残した表現に触れるというよりも、ひとつひとつの言葉のあいまいさまで厳しく除外したような広い意味でのマニュアル的・辞書的書物しか読めなくなってしまっています。
また、テレビやインターネットなどのメディアが強いるスピード感や画面という触感を欠いたインターフェイスを介したコミュニケーションの形は、先方から伝えられる情報を個々が身体的に感じとったものが腹へと落ちる隙も与えないまま、ただ見たまんまの映像やテキストとして伝えられるデータをただ処理させるような情報への接し方を助長します。

人間中心的なもの、社会的なものへの偏り

こうした現在の生活状況においては、すでに何度も書いてきたとおり、「わからない」という感覚そのものを自分自身の問題として受け入れることができずに、他人との関係、社会との関係において「正解がわからない」という客観性の問題に置き換えられてしまう傾向がみえています。「わかる」ということもまた、感受性を起動させた上での活動というよりも、単なる表面的な知的処理の問題となってしまい、「わかる」ことそのものが自分とは無関係のものであるかのように考えられています。

だから、感受性が動かなければ好奇心も動かない。好奇心が動くためには「わからない」を自分の問題として受け止めることが必要ですが、感受性がはたらかないと「わからない」を客観的な正解/不正解という表面的な処理で済ませてしまう。とうぜん、それでは処理のための機能が起動するだけで、好奇心のスイッチは入りません。その意味でも、感受性はOSのような基礎的役割をもつものだと思います。

「わかる」ということが、こんな風に極度に人間中心的に、社会的になってしまえば、物事をみる視点も人間中心的なところ、社会的なところに偏ってしまい、世界のすべてが人間関係的なものであるかのように感じられたとしても仕方がないのかもしれません。その結果、よけいに人間関係ばかりを気にすることにもなるし、人間関係に対するのにも自身の感受性をはたらかせて接することができないからコミュニケーションに悩むことにもなる。まさに悪循環です。

誰もいない自分ひとりの世界に向き合ってみる

こうした状況において個々人が自身の感受性を磨いたり、衰えないよう維持したりするためには、上で挙げたような現代の生活環境が強いる人間中心的なもの、社会的なものに偏った活動から、意図的に自身の身を引き離すようにする必要があると思うのです。
要因がある程度特定されているのですから、その要因を取り除いてみればいいわけです。完全に生活のなかから取り除くことは不可能でも、一定期間取り除くことが不可能なレベルの要因ではないわけですから、心の持ちようと実行力でなんとでもなるはずです。

それがこのエントリーの一番はじめに書いた「人間関係のことなど忘れて、いったんは誰もいない自分ひとりの世界に向き合ってみるのがよい」ということの意味です。
だから、自分ひとりの世界に向き合うといっても、実は自分の世界に引きこもれという意味ではありません。僕がイメージしているのは、むしろ積極的に人里離れた場所を旅してまわったり、コツコツと手を使って実際に物理的なものに触れるものづくりに取り組んでみようということです。人間同士のコミュニケーション、社会的なルールから離れたところで、非人間的なものや非生物的なものとの交感に積極的に身を投じてみようということです。

ひとりの世界に閉じこもって家でネットやゲームをしていたのでは単なる現実逃避でしかありません。そうではなく現代の生活においては視野の外に追いやられてしまっている非人間的なものや非生物的なものが織り成すもうひとつの現実世界で、非現代的な現実の世界で、積極的に活動してみることで自身の眠った感受性を揺り起してみることが必要なのではないかと思うのです。

人里離れた世界への積極的な遊行のすすめ

そうしたもうひとつの現実世界での積極的な活動によって自らの感受性を磨けば、人間関係が大部分を占めた現代社会でのコミュニケーションに悩むことも減るだろうと思っています。
コミュニケーション力以外にも発想力や問題解決力など、他の面にも関しても基礎となるOSとしての感受性を磨いた方が、個々のアプリケーションを個別に向上させようと考えるよりも結局は近道であるはずです。そういう基礎的な力を高めてこそ、「ひらめきを計画的に生み出す」ということも可能になるのだろうな、と。

人とのコミュニケーションに悩んで心を疲弊させてしまっている人には特に、リフレッシュの意味も兼ねて、こうした人里離れた世界への積極的な遊行をおすすめしたいですね。



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posted by HIROKI tanahashi at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ライフハックス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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