2009年09月05日

やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな

物事からなにかを感じとる力。
自分が感じていることを意識のうえでも受け止める力。
客観的な知識ではなく、自分で感じたことを信じる力としての感受性。

この感受性がいろんなことを学んだり勉強したり理解したりする上での基礎となるものなんだろうなと思います。

頭がわるいとかではなく、感受性がよわい

「いま勉強中です」とか「いろいろ教えてください」とか口ではいいながら、いつまでたっても成長しない人がときどきいます。たしかにそういう人は勉強していたり、いろんな人に教えてもらったりしていたり努力はしているのですが、なぜかどこか決定的に飲み込みがわるいし、みると勉強の方向性や疑問の持ち方がズレていたりする傾向があります。

程度は極端にダメなのもあれば、ちょっとズレてるなという程度のこともあるのですが、共通しているのは、その人自身が言っていることのなかに矛盾があったり、言ってることと行動の乖離があったりする点です。
みていて、きっと頭のなかで考えているイメージと感覚的に感じとっているはずのものとがうまくリンクできていないんだろうなと感じます。だから、しゃべっていることがすごく表面的にも思えるし、こちらが話していることに対する理解力の低さも感じてしまいます。

頭がわるいとかではなく、感受性がよわいのだろうなと思うのです。
若いときはまだ経験そのものがすくないし、結果、感じたことの蓄積も多くないのですから、まぁ、しょうがないなと思えるのですが、ある程度の年齢(30歳以上)でそれだと、うーむ、これからつらいだろうなと思ってしまいます。

感受性は新しいものを吸収するための土台

なので、ある程度の年齢を超えると、きつくなってしまうと思うのですが、僕は勉強したり知識を身につけること以上に、感受性を磨くことの大切さを思います。

感受性がなければ、物事の細かな違いに対する認識や意味付けができず、知識の受容や新しいことの学びに支障がでてしまうはずだと思っています。認識できないものは理解することはできません。理解は意識の活動だと思いますが、認識はそれ以前の感性的活動だと思います。
その意味でもさまざまな物事を差異や関係性を感じとるための感受性がなければ理解の前提条件が満たせません。感受性というのは、新しい物事を吸収するためのスポンジのようなもので、土台だと思います。

それがガチガチにかたまってしまっていたり、あまりに目が粗すぎて物事の微妙な差異に気づかなかったりすれば、やっぱり新しい知識の受容や他人とのコミュニケーションのなかでの表現の違い・相手の感情の変化などに気づく繊細さを欠いてしまうのだろうと思うのです。

その意味で、具体的に知識やスキルを学ぶこと以上に、それを可能にする自身の感受性を磨くことの大事さを思うのです。感受性こそが学ぶための基礎力だと思うから。

感受性の乏しさは判断力の弱さにつながる

でも、そうした感受性の大事さを、学校でも職場でも家庭でもあんまりいわないし、そのための訓練の機会を与えてくれないんですよね。

それにこれほど社会が人工物(物だけでなくルールや法、方法論なども含め)ばかりに囲まれていなかった時代であれば、各自が日々生きる中で自然と感受性を養う機会もあったのでしょうけど、子どもの遊び場さえないいまの環境下では、個々人が自然と感受性を養うこともむずかしくなっているのでは?とも思います。

そうなると、各自が自分で感受性を高めるための具体的な努力をしたり、家庭や職場や教育の場で感受性を高めるための訓練の機会を与えてあげないと、いくら勉強や学習をしてもいっこうに吸収できない人ばかりが増えてしまうんではないのかなと不安になります。(P.S.このあたりについて考察した続編「人里離れた世界で感受性を養う」を書きました)

とにかく感受性に乏しいと、まず自分自身の感情さえ感じられなくなります。自分が何がわからないかもわからなくなります。それでは何が自分自身にとって役立つかが、自分自身の内からは判断することができず、何かしら客観的な基準にたよってしか、自分が学ぶべきこと、自分が答えを見つけるべきことが何かを判断したり、決めたりができなくなってしまいます。

「わかる」対象ではないものに触れる経験をたくさんする

問題はそういう判断って実は日常的に非常に頻繁に起こっているということでしょう。
日常的に起こっているのであれば、その都度、社会的な規範にだけ頼って、すべて判断するということはできません。必ず自分自身で答えをつくりだして、その都度、決定し行動しなくてはいけない場面があります。

そして、他人があなたにそれを求めるシーンも日常的に決してすくなくないはずです。そこで自分自身で感じたことから自分なりの答えが出せない人は、やっぱり相手に不満を抱かせたり、不足を感じさせたりするでしょう。
それは相手が教える立場で、あなたが学ぶ立場の場合でも起こることで、その場合、相手がせっかく教えてくれる気になっているのに、あなたのほうが学んでいることを相手に示せないがために、相手もいつかあきらめることになり、結局、あなたは努力しているつもりでも学ぶ機会を失ってしまうのです。

そういう意味においても学ぶ力を高めるためにも、その基礎となる感受性を磨く方法を自分自身でみつけていく必要があると思うのです。
それにはやはり知識の習得、答えの獲得より前に、自然や芸術のような「わかる」対象ではないものに触れる経験をたくさんしたほうがよいのではないでしょうか。

最近、そんなことをすごく感じるのです。



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ラベル:感受性
posted by HIROKI tanahashi at 01:06| Comment(1) | TrackBack(1) | ライフハックス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。

>勉強の方向性や疑問の持ち方がズレていたりする。
>イメージと感覚的に感じとっているはずのものとがうまくリンクできていない。

書かれている事は以前から私も自身に思う問題でした。
『ある程度の物事は自分はわかっている』という考えが、きちんと整理しリンクした思考を遮っているのかなと、考えています。
その場でわかった気でいるだけで、実はoutputは全くできない。

なんとなくニュース番組を見ずに、後で内容をプレゼンするんだという気持ちで見るようにしています。
Posted by erikure at 2010年04月24日 06:02
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