そうした人に共通するのは未知への感受性の希薄さです。わからないものを避け、未知なるものを嫌悪する。自分が安心してみられる世界に閉じこもり、新しい世界に目を向けようとはしない。外部に対してはもちろん、自分自身の内にある未知や答えのはっきりしないものからも目をそらしたがる傾向がある。
そういう人もいろいろ教えてもらいたがったりするのだけど、残念ながら、そういう人に教えるのはむずかしい。何故なら教えてもらいたがってる割には未知なるものを嫌うから。教える側は相手がすでに知ってることしか教えられなくなります。
もし、あなたにそういう傾向があるのなら未知から逃げたがる自分自身の傾向を見直す必要があるでしょう。
「わからない」を自分でつくる
僕は、未知なるものに立ち向かうことが苦手な人はきっと「わからない」ということを自分自身の問題として捉えなおすことが苦手なんだろうと思うのです。「わからない」と感じた際、相手・対象のペースにあわせてしまうから、よけいにわからなくなるし、わかるための糸口さえつかめずにイヤになるんではないかと思うのです。そうではなく、「わからない」と感じたら、いったん、その「わからない」を自分自身の問題として引き受け、自分自身の文脈で自分が何をわからないのか、何故わからないのかを考える方向にシフトした方がいいんです。つまり、自分のペースで「わからない」を相手にするのです。
それは言い換えれば、他人・対象から感じた「わからない」を、自分の問題としての「わからない」に編集しなおす作業です。この編集作業をあいだに挟まず、直接、相手・対象のペースに乗ってしまったりするから、いつまでたってもわからないし、未知なるものを相手にするのがよけいに苦手になるのです。
「わからない」を好奇心に変える
この編集作業は簡単にいえば好奇心をもつということです。ようするに好奇心は自然に生まれるのではなく、実は自分でつくるものなんです。好奇心旺盛な人は単に小さな頃から自然に「わからない」を自分の問題として捉える練習をしてきたから、意識せずともそれができるようになっただけです。「わからない」が苦手な人は意識的に好奇心をつくる訓練をした方がいいと思います。そうでなければ相手が正しい答えをすでに自分が知っている通りに提示してくれたときにしか、わかることができないという状況から脱け出せないでしょうから。
好奇心を自分編集でつくりだす
では、好奇心をつくりだせるようになるには、具体的にはどうしたらいいでしょう。僕は、普段から自分のなかで自分の目の前で起きたことを説明する文章を組み立てる練習をするのがいいと思います。まずは気になったこと、つまづいたことなどを対象に、それに関して自分が感じたことと実際に起こったことを織り混ぜ編集し、さらにそれに対して考えたことをつけくわえてみる。もちろん、わからない単語などがあったら調べて辞書レベルの理解はしておく。
そういう作業を繰り返していくと、自分自身が何がわからないか、何故わからないのか、何をわかりたいのかが、うっすらと見えてきます。これは訓練ですから最初は多少は苦痛でもがんばって続けるしかない。ただ、がんばって続ければ、そのうち好奇心をつくるコツが見えてきます。「わからない」ものとの付き合いかたがぼんやりとでもわかってくるはずです。
ぼんやりとわかるという感覚を大事にする
このぼんやりとした感覚をつかむことが大切なんだと思います。わかるというのも、本当はこのぼんやりとした感覚を各自がつかむことのほうが大事で、誰にでも通用する標準化された答えを見いだすことでないはずです。むしろ、そうした標準化された答えばかりを求めてしまうところに、本を読めなかったり、他人のことばの背後にあるものを理解できなかったりという事態が生じるのでしょう。正解を知ることと、感覚を交えて他者とコミュニケーションすることは別なのに、すべての「わかる」が前者の正解を求める形になる傾向があります。それでは必然的に、ぼんやりわかることが大事なコミュニケーションは成立しにくくなるはずです。
そういう意味でも、わからないことばかりにしているのはあなた自身にほかならないのです。
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