たどり着いた高千穂バスセンターは、事前に観光ツアーの予約をしてあったタクシー会社の事務所と軒をつらねていた。午後1時の予約まではすこし時間がある。とりあえず目の前の喫茶店でからあげ定食で腹ごしらえしたのが、僕にとっては憧れの地だった高千穂での最初の行動だった。

高千穂峡
くしふる神社
というわけで、高千穂に行ってきました。天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫であり、皇室の祖先と神話に語られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から降臨した地といわれる高千穂。
その天孫降臨の物語は、古事記には「竺紫の日向の高穂の久士布流多気に天降りまさしめき」と書き記されています。
その「久士布流多気(くじふるたけ)」と想定される槵触山(くしふるやま)を御神体とするのが、最初に向かったくしふる神社。長いあいだ、山そのものを御神体としていたために、本殿が建てられたのは1694年。本殿建立とともに、主祭神も瓊瓊杵尊となっていましたが、実際に行ってみると、明らかに古くは山そのものを拝していたことが想像できる場所でした。
槵触山のふもとには、天孫降臨に際して当地に禊ぎのための水がなかったために、天村雲命が高天原に戻って天真名井(あまのまない)から汲んできた水を移した場所があり、その場所もまた天真名井と呼ばれています。また、近くには、天孫降臨後、八百万の神々が集まって高天原を遥拝した場所であると伝えられる高天原遥拝所もありました。

高天原遥拝所
天岩戸神社
猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)が結婚されるときに、周りの荒木で宮居を建立されたと伝えられる荒立神社などを訪れたあとに向かったのは、天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)。岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある天岩戸神社は、東本宮には天照大御神を祭っていますが、西本宮のほうは、これまた天照大神がお隠れになったとされる天岩屋戸を御神体としています。そのため拝殿はあるものの、その奥に通常の神社ならある本殿がなく、川の向こうにうっすらとみえる洞窟を拝む形になっています。
併設された神楽殿には、下の写真のような切り絵の飾りがかかっていますが、これは他の神社の神楽殿でもみられるもので、高千穂ではホテルや飲食店でもこの飾りがみられました。

天岩戸神社の神楽殿
ちなみにこの地方の注連縄は独特で左から3本、5本、7本の飾りが垂れているもので、普通の家でも1年中注連縄をしているのは高千穂地方の特徴だそうです。
天安河原
天岩戸神社の西本宮のわき道を進むと、岩戸隠れの際に八百万の神々が集まって相談した場所と伝えられる天安河原(あまのやすかわら)があります。まぁ、この天安河原にしても、天岩屋戸にしても、天真名井にしても、本来は天上である高天原にある場所です。ちなみにおなじく高天原にある天香具山(あまのかぐやま)もありました。
天孫降臨の地が同時に、元いた場所である高天原でもあるというのは僕らにとってはおかしな話に思えますが、これらは「古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫」で書いたとおり、みことである祝詞を唱えると、どんな時間も場所も、その祝詞が最初に唱えられた原初の時間と場所になると考えていた古代の人びとにとっては自然なことだったのではないかと思います。


天安河原
八百万神の集いの場所であるこの河原の一角に、仰慕窟(ぎょうぼがいわや)と呼ばれる大きな洞窟に鳥居と社がありました。
この天安河原には、河原に沿って無数の石積みがされています。たくさんの石を積みながら八百万の神々に願いを祈るという慣習によるものだそうです。
特に、仰慕窟のまわりは下の写真のように無数の石積みがあり、異様な雰囲気をかもしだしていました。

天安河原の石積み
二上神社
古事記が伝える天孫降臨の場所は、「久士布流多気(くじふるたけ)」ですが、『日向風土記』ではその場所は日向の高千穂にある二上の峰であるとされています。これにはすこし訳があって、古事記では、瓊瓊杵尊の天降る途中、高天原から葦原中国までを照らす神がおり、天鈿女命が問うと、道案内をするために迎えにきたといったのが猿田彦命でした。それがこの二上山であり、一行はここから天の八重雲を分け進み、槵触山に降り立ったということにされているのです。つまり、この二上山はまだ天と地のあいだというわけなんですね。
その二上山をもともとの御神体とするのが二上神社です。こちらも社殿が建立されて以降は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊 (いざなみのみこと)の二柱を祭っています。
こちらも社殿につづく階段をのぼる前から、あー、ここも山自体が神なんだなと感じさせる場所でした。

二上神社
続く…
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