2009年08月21日

「ひらめき」のためにはいったん思考を保留して、機を熟すのを待つことも必要

わからないからといって焦ってわかろうとする必要もなければ、その逆にすぐにあきらめてしまうのも違うだろうということを「わからないことへの耐性」と「「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。」の連作で書いてきました。
未知のものに出くわし「わからない」と感じたら、焦るのでも、あきらめるのでも、思考停止状態に陥ってしまうのでもなく、とにかく自分のペースで「わかる」まで付き合ってみようとする保留の状態をつくることが大切なことがあると思っています。あきらめずにゆっくりと「わからない」ものにとことん付き合ってみることで「わかった」と感じるときが来ると思っています。

そんなことを書いてきたわけですが、ちょうどいま読んでいる岡潔さんの『春宵十話』のなかに、まさにそうした体験が書かれていたのでびっくり。
岡潔さんといえば、文化勲章などももらっている有名な数学者ですが、その岡さんが数学の問題を解く際にも、まさに「わからない」にゆっくり付き合うことで未解決の難問を解くための発見に出くわすという体験を何度もしたことがエピソードとして描かれているのです。

考えても考えても解けない難問が解けるとき―

たとえば、フランス留学から戻って本格的に「多変数解析函数論」を専攻していこうと決めた際、岡さんは「多変数解析函数論について」という本を読んで、その分野に3つの未解決の中心的な問題が残っていることを知ります。そこで岡さんはこの問題を解いてみようと取り組みはじめます。

ところが、やっぱり未解決として残った問題だけあってむずかしく、最初の切り口さえも見つからない状態が長いあいだ続いたそうです。毎朝方法を変えては問題を解くための手掛かりを、まさに手探り状態でさぐってみても、その日の終わりになってもその方法で手掛かりが得られるかどうかさえわからないような状態が、3か月も続いたといいます。
そして、そういった状態が3カ月も続けば、どんなに無茶で、荒唐無稽なアイデアさえ考えつかなくなってきて、最初の10分くらいは気分がひきしまっていても、すぐに眠くなってしまう状態なってしまったそうです。

そんな調子でやっていたときに知人から北海道に来ないかという誘いがあり、ちょうど夏休みの期間だったこともあり、岡さんはその誘いにのります。北海道大学の応接室だった部屋を借りて、そこでも研究を続けようとしたそうですが、ソファーにもたれているとやはりすぐに眠ってしまったといいます。
そんなことを続けて9月になり、そろそろ帰らなくてはいけないとなった時に、北海道に誘ってくれた知人の家で朝食を食べたあと、隣の応接で考えるともなく考えていると、それまでどうにも糸口さえ見つからなかった問題を解くための方向性が徐々に見えてきたのだそうです。

「このときはただうれしさがいっぱいで、発見の正しさには全く疑いを持たず、帰りの汽車の中でも数学のことなど何も考えずに、喜びにあふれた心で車窓の外に移り行く風景をながめているばかりだった」そうです。

わかるためには何もしない準備期間が大事

岡さんにはそうした体験が何度もあったそうです。そして、発見の場合、いろいろと種をまいて努力すれば、すぐに実がなるというのではなく、植物同様に芽がでるまでの準備期間が必要であるはずだといっています。

全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。

いろんな方法で試してみてわかろうとするだけじゃだめなんですね。いろいろと努力したあと、すこしのあいだ、保留時間をおく必要があるのでしょう。

これとおなじようなことが、僕自身の体験を振り返ってみても思い当たることがあります。

あいだを置くと「わかる」

僕はユーザー調査の結果からその内容をKJ法などを用いて分析し、その分析結果をペルソナとして表現し、また、そのペルソナの期待に応えるための要件をシナリオとして描いたうえで、その内容をプロトタイプに落とし込むという、人間中心設計の一連の作業を体験してもらうワークショップの講師をさせていただくことがありますが、そのときにも岡さんが体験したのと似たような体験を参加している方々が感じとっているのを見ています。

そのワークショップはたいてい2週に分けて行うのですが、ほとんどの場合、1週目の作業はほとんどみんな自分が何をやっているのかさえわからずに終わります。KJ法を使ってユーザーの行動を分析する作業をしているはずなのに、自分が何をしているのかもわからなければ、ユーザーの行動もとても把握できたとは思えない状態で一日目を終えられる人が多いんです。
ところが、2週目にシナリオを書き、プロトタイプをつくる際になると、その前の週では分からなかったはずのユーザーの理解がいつの間にかできていて、シナリオもプロトタイプもユーザーの立場からつくれるようになっていたりします。もちろん、完ぺきではないものの、1週間前にはまったく「わからない」状態だったのが、2週目にはすくなくとも何かが「わかった」状態で作業ができるようになるんです。

この事実は知ってはいたものの、僕にもどうしてそうなるのかがわからなかったんですが、岡さんのエピソードを読んで、あー、途中に何もせずにおく保留期間というのも大事なんだとあらためて思ったわけです。

やり方がなくなったからといってやめてはいけない

もうすこし日常的なレベルでも、前の日にはいくら考えても思いつかなかったアイデアが一晩寝て起きてみると、パッと思いつくといった体験は、みなさんにもあるのではないかと思います。
それもきっと岡さんの体験のミニ版なんだろうなと思うのです。「わかる」ためにはただ焦ってがんばるだけではだめで、実はがんばったあと、すこし機が熟すのを待つ時間も必要なんだろうとあらためて思いました。

岡さんは、それをこんな風にも表現しています。

もうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。

そうなんですよね。ずっと考えていた問題を解くヒントが頭に浮かんできたときには、ほとんどその問題は解けたも同然の状態だったりするんですよね。

もちろん、現実化のためには、そのヒントを核として、きちんと現実的な構築物を組み立てていくという別の苦労も必要です。ただ、それは僕が『デザイン思考の仕事術』でも問題を解くための具体的な設計案を組み立てることとは別に、そもそも問題をどう解くか、もっとその前段階で問題を果たしてどう捉えるのかといったところの「ひらめき」を導きだすのには、具体的な問題解決とはまったく異なる大変さがあると指摘しているとおりで、問題解決の切り口を発見すること、それをひらめくことのむずかしさは、すでに見えているゴールに向かって使えるリソースを最適化し組み立てていくこととはちょっと違った面があるんですね。
『デザイン思考の仕事術』で使っている用語でいいかえれば、問題解決のための組み立てには帰納法が、問題発見のためのひらめきにはアブダクションが、という風に、それぞれ異なる推論形式が必要だということになると思います。

KJ法は方法自体より、未知の対象に立ち向かうところにむずかしさがある

先の岡さんのエピソードでいえば、問題について考えるための「最初の切り口」を見つけるのが実は一番苦労するところです。つまり「わからない」未知のものに対して、どう切り込んでいくかです。
たいていはいろんな切り口で切り込んでいってもしばらくは未知の対象との絡みがとことんズレてしまった状態が続きます。

それが僕のやっている作業でいえば、KJ法の苦しみに対応するところなんでしょう(関連エントリー:「なぜ、KJ法は失敗するのか?」)。
ようするに、KJ法ってはじめてやるからむずかしいんじゃないんですよね。未知のものに対して、安易にわかってしまうことを拒否し、本当の意味で「わかった」と感じられるまで、統合化〜図解化の作業を繰り返しながら最適なパターンを見いだすという方法だからむずかしいんだと、あらためて思います。

結局、KJ法がむずかしいといっても、方法自体を覚えることなんてそんなにはむずかしくないんですよね。本当にむずかしいのはやっぱり未知の対象に対して、「わかった」を得ることなんだと思います。

本当にむずかしい対象を相手にする場合は、1回のKJ法のセッションでわかろうとすること自体が間違っているのだろうなと思いました。1回のセッションは「わかった」とはならないまでも、とりあえず最後まで形にはしてみて、また時間をおいて後日考えてみるというのも「ひらめき」のためには必要なんだろうな、と。

もちろん、それはKJ法を用いる場合だけではなく、何か未知のものに対するときには当てはまることで、いろんな切り口で取り組んでみて、そこでわからなかったらいったん寝かせるということが必要なんでしょう。

 

関連エントリー
posted by HIROKI tanahashi at 02:06 | TrackBack(0) | ライフハックス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/126138501
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック