2009年08月20日

「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。

うーん。わからなかったら、わからないでいいじゃんと思うんだけどなー。
すくなくとも焦ってすぐにわかろうとしなくてもいいと思うんですよ。

わかるとかわからないとか所詮は個人の問題だと思っています。

いや、全部がそうじゃなくて、人間社会の仕組みとしての決めごと―たとえば試験の答えだとか、法律で決められてるやっちゃいけないこととか、待ち合わせの場所と時間とか―そういうのは、決まっていることをわかる必要があって、決めたことが1つなら答えは1つです。

でも、そういう決めごとの外にあるもの―たとえば他人の気持ちとか、誰かによって主張された内容とか、自然や日常の出来事をどう解釈するかとか―を、どう見るか、わかるかは所詮は、わかる側の個人的な問題でしかない。たとえ相手に「なんで、私の気持ちわかってくれないの?」と非難されたとしても、それは相手がわかってほしいことをわかってあげることができないという問題とはまったく別の次元で、相手の気持ちをわかる/わからないはわかる側の問題として存在するはずなのだと思うのです。

決めごとの理解や、他人とのコミュニケーションにおける意思の疎通という話とはまったく別の次元で、個々人が自分の文脈=個人的な価値の体系のなかで、未知の対象を意味ある形で解釈できるかどうかという問題がある。それは社会的な意味での正解だとか、相手との意思の共有とかいった場合のように外から正解/不正解を決めてもらえるような基準はなく、自分で「わかった」と思えるかどうかということにしか基準はない。

「なんで、私の気持ちわかってくれないの?」

相手の気持ちをわかるというのは、相手にもその人の生きてきたなかで形成された文脈があり、それをわかってあげようとする側にもその人が生きてきたなかで培ってきた文脈があるわけで、その異なる文脈のなかで、それぞれが自身の価値体系のなかで「わかった」と感じられるプロットを組み立てられるかということになるので、基本的にそれがむずかしいのは当然です。

相手は「なんで、私の気持ちわかってくれないの?」というかもしれませんが、それは相手がみた「私の気持ち」の解釈であって、他者(の別の文脈)から見たら「私の気持ち」自体が別の解釈がいくらでも可能だということが、その相手自身がわかっていないということでもある。だからといって、相手に「ちゃんとわかるように話してくれないからだよ」というのもお門違いで、結局、そういう場合は双方ともたったひとつの答えがあり、それを共有しようとしてしまっているがゆえに、永遠にわかりあえず平行線をたどる可能性がある。

視点が違えば解釈は異なる。異なっていい

もちろん、これは「私の気持ち」が対象である場合の話ではなく、互いの主張が食い違うケースでもみられるものです。視点が違えば同一のものでも異なるものとしてみえるのは当然であるにもかかわらず、その視点の違いがもたらす解釈の違いをたがいに許容できずにいると、そういう罠にはまりこんでしまうはずです。

視点が違えば解釈は異ならなければならないということをまず前提にすべきです。そして、異なること自体を喜んだほうがいい。それが嫌で意見の一致を見たいのであれば、主張そのものを戦わせるのではなく、まずお互いに視点の相違がどのようなものかを見比べ、ともに相手の立場を理解することからはじめなければ、途中で妥協でもしないかぎり、いつまでたっても意見の一致はみられないはずです。

知識の束、理解の方法が「わかる」をつくる道具

話を戻せば、そうした他人との意見の一致、社会におけるルールや決めごとの遵守などの場合とは違って、自分が何かしらの自然に起こる物事を理解しようとすれば、そこにおいて「わかる」とか「わからない」とか個人の問題でしかありえません。

もちろん、それは100%主観であるという意味ではなくて、何かを理解するときに利用する知識の束、理解するのに使うことができる方法の引き出しは必ずしもその人固有のものではなく、その人が生きる過程で外にある情報を学習やいろんな経験をつうじて身につけ習得してきたものであるはずですし、その知識や方法は社会的にも認められたものであることも多いでしょう。

『デザイン思考の仕事術』にも、こんな風に書いてましたよね。

勘違いをしている人が多いように思いますが、知識があるから疑問をもつことができるのです。知識はわかるために必要なのではなく、わからないことを発見するために必要なものです。デザイン思考が重視する観察という方法においては「わかる」ことが重要ではなく、目の前の普段と変わらない光景を「これはなぜここにあるの?」「なぜ、みんな、そんな風にするの?」と好奇心をもった目で見つめなおし、自分自身の物事の見方を変えることこそが重要なのです。見る対象が変わるのを望むのではなく、自分自身が変わるのです。

疑問をもつための道具が知識だったり方法だったりします。その道具を使って、自分自身を変えることを「わかる」というのだと思います。ただ、知識や方法はあくまで道具であって、「わかった」という結果そのものではありません。他者が提供する道具を使ったとしても、それを解釈して「わかった」をつくるのはやっぱり自分の責任なんですね。

科学的な理解がすなわち「わかった」になるわけでもない

ただ、その知識の束、理解のための方法の組み合わせは人それぞれで違うでしょうし、そうした知識や方法の使いこなし方も異なるはずです。科学者がみれば月は地球のまわりをまわる衛星かもしれませんが、詩人や画家の解釈はそれとは異なっていてもまったくおかしくない。月が「とっても青い」と感じようが月を青く塗ろうが、それを間違いということはできません。太陽が地球のまわりをまわっていると感じることは科学的には間違いであっても、自分を中心に太陽も世界もまわっていると詩人が歌っても間違いにはなりません。

科学の記述の正しさは、科学の記述のルール、科学の物事の見方の内においてのみ正しいだけであって、科学がみた自然が正しい姿をしているわけではありません。人体の能力がもつ視野からみれば単に自然法則がそう見えるだけだといってもよいのでは、と思っています(もちろん、それは人間が自由にコントロールできるとかいう話ではなくて)。

いずれにせよ、科学的に「わかった」からといって、必ずしも、なんで飛行機が空を飛ぶのかとか、風邪をひくと熱が出るのかとかが「わかった」になるわけではないでしょう。

それにそもそも科学の物の見方だって本当は詩人や画家の見方とそう変わらない個人の解釈ということが求められると思うんです。岡潔さんの『春宵十話』を読みながら、そんなことも感じています。

詩人的解釈、画家的解釈の肩身が狭い

昨日の「わからないことへの耐性」で問題にしているのは、そういう科学的な理解のように、ある特定のルール、お作法において答えが共有可能な形で1つもしくはいくつかに決まるような「わかる」ではなくて、あくまで、その解釈の意味が個人にゆだねられるような場合での「わからない」だったわけです。

僕が危惧しているのは、なんでもかんでもわかろうとする場合に、科学や社会的ルールと同様の正解があることを想定してしまうケースが増えすぎているのではないかということであり、自分自身で何が正解かを決めなくてはならないような詩人的な解釈、画家的解釈のような、創造的解釈というものを拒むか、もしくは、そういう「わかる」があることを忘れてしまっている傾向がつよすぎるのではないかということです。

答えを固定させないという選択

言い方をかえれば、答えを固定させないという選択ができなくなっているのではないかと思うのです。ルールを決めることで、意味のゆれ=オルタナティブな可能性を排除する傾向があまりにつよくなりすぎているように感じるのです。

ルールを決め、答えを固定させるということはその瞬間、わかるということがルールを共有、理解した上での、それを厳守するというものに形を変えてしまいます。
それが「古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫」で例に挙げたような科学者を中心につくられた英国王立協会が17世紀に、ことばのゆれ、多様性をたくさん保持していたシェークスピア演劇を排斥し、あいまいさを排除した普遍言語をつくろうとしたことなどにも見られます。属人的な解釈を嫌い、共通のルールのうえでの唯一の解釈を志向したひとつの例ですが、どうも現在の社会の傾向はそちらの方向に走りすぎている嫌いがあるように思うのです。

もちろん、僕はここで科学的な「わかる」の共有が不必要だなんてことを言いたいわけではないし、科学を排斥しようなんてつもりは毛頭ありません。ただし、あまりにもそちらの方向ばかりに偏っていて、詩人の「わかる」、画家の「わかる」、そして何より自分自身でしかできない自分自身の解釈によって「わかった」と思えることがすくなくなってしまっていることが問題ではないかと思っているのです。

「わからない」のは自分の問題だと腹をくくれば他人にとやかく言われることを気にせずに済む

それができなくなる傾向があるからこそ、わかること、わからないことをとにかく自分自身の問題として引き受けることが必要だなと思うんです。

そして、そのうえで冒頭にも書いたとおり、「わからない」を自分自身の責任として引き受けるのであれば、別にまわりの目を気にして焦る必要などなくて、すぐにわからなくても、時間をかけていつかわかればいいと余裕をもった構えをとることができると思うのです。「わからない」のがあくまで自分の責任であり、自分でしか解決できない問題だと腹をくくれば他人にとやかく言われる筋合いもなく、自分さえあきらめずにわかろうとし続ければ時間がかかること自体は何の問題もないはずです。

純化させずに保留する

そういう心持ちになれば、安易な答えをとりあえずあてはめて「わかったつもり」になることをせず、「わからない」未知のものをとりあえずわからないまま保留しておいて、心の片隅で気にしておけばよくなります。安易な答えで未知の対象を純化することなく、自分が本当に「わかった」と感じられるような解釈に出会えるまでは態度を保留しておくということもできるようになるはずです。そういう余裕ももてればいいですよね。

ただし、それは相手との共有や社会的合意が求められる以外の場合に限ってだとは思います。そういう意味では社会全体がそうした個々人の解釈の余地というのをあまりに減らしすぎてしまっているのでしょう。
これが問題です。もちろん、この場合の「社会」というのはほかならない僕ら自身のことであって、ようは誰かのせいというより僕ら自身が改善していくべき問題なんですよね。



関連エントリー
タグ:わかる 思考
posted by HIROKI tanahashi at 00:47 | TrackBack(0) | ライフハックス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/126060625
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック