自分の目の前に何らかのわからない対象が存在すると、無視するか、その対象を差し出した人に対して苦情をいうか、あるいは、わからない自分をただひたすらダメだとレッテルをはり殻に閉じこもってしまうか。いずれにしても、わからない対象をわかってやろうという姿勢が長く保てる人はいないし、すぐにわからないまでもいつかわかってやろうと心に留めておける人もすくないのではないかという気がしてなりません。
わかろうとする努力が著しく欠けている
自分自身でわかりやすいものを求めてしまうだけでなく、相手に何かを提示する際にもわかりやすくすることを自分に課してしまう傾向があるような気がしています。わかりやすさに対して必要以上の価値をあたえてしまっているのではないかと感じます。わからないのは、わからないものを生み出した人のせいにしてしまい、わかることができない受け手の側の問題にすることがあまりにすくなくなってしまっているように思います。その要因のひとつには、まわりのあらゆるものが人工物になってしまっていることもあるのだろうと思います。なぜ突然夕立が振り出し、びしょ濡れにならなきゃいけないかの理由がわからないといって文句をいう人はいないでしょう。自然が相手なら人はその理由がわからなくても「仕方がない」と思える。しかし、相手が誰かしらの意図によって生み出された人工の物、出来事であれば、他人のせいにできてしまう。わからないのはわかるようにしない相手のせいだと。
でも、これは当たり前ですが、相手が自然だろうと人工のものだろうと、何かがわからないことの原因の半分はそれをわかる側の責任でもあります。ところが、どうもそれを表現する側、作り手側、話をする側の一方的な責任にしてしまう傾向がみられます。
そうでなければ受け手の側が必要以上に、自分には理解する力がないと自分を責めることで、わかろうとする努力をする手間から自分を守ろうとするかです。
いずれにしても受け手側にわかろうとする努力の著しく欠けている点ではおなじです。
やってもわからないものがあるということを許容できない
そもそも、簡単にわかろうとしすぎるのです。わかろうとする努力ができない傾向が強すぎるのです。
絶対にわかりきってしまうことがないものを、それでもひたすらわかろうとする努力をしつづけることができない人が多いのです。
自然を相手にすれば実はわかりきってしまうなんて状態はありえない。答えなどは永遠に見つからない。ただ、その時々の解釈が成り立つ場合があるだけです。科学的な法則さえも単に現代人が妥当だと感じられる解釈でしかなく、絶対的な答えなどではない。単なるお約束のうえに成り立つ妥当な説明でしかないことを忘れすぎです。
答えなどはなく、結局、ひたすらわかろうとしつづけ、その時々でこれだと思えるような解釈をつくりつづけていくしかないということを忘れてしまっている人が多いのではないでしょうか。
それゆえに、自分のなかで「なぜ?」を繰り返しつづけることができず、こうすれば結果が出るという方法を安易に求めてしまう傾向がある。やってみなければわからないということはなんとか認めることはできる人でも、やってもわからないものがあるということを許容できなかったりします。
未知の状況、未知の相手に対する対応能力が著しく失われる
これで何が困るかというと、ひとつには未知のものに対した場合の対応の懐の浅さが際立ってしまうということ。ちょっと普段と違う出来事や自分の知らない世界に出くわすと行動や頭の働きがフリーズしてしまったりする。もうひとつには他者への配慮が著しく欠けてしまうようになること。相手との距離がはかれず、相手とのコミュニケーションに支障を生じるようになります。
他にも困ることはあるはずですが、いずれにしても型どおりの行動しかとれなくなり、未知の状況、未知の相手に対する対応能力が著しく失われていってしまうのだろうと思います。答えがわからないと対応できないのですから当然です。わからないものをわからない状態でも、なんとか自分の身で引き受ける方法の引き出しを普段から用意しておくということを怠っているから、そうなるのは仕方がありません。
わからないことへの耐性を鍛える
わからないという状態に耐えながら、それでもずっといつかわかってやろうと努力しつづける。もちろん、その努力はむくわれないとわかっていたとしても、そんな安易な理解を拒み続けて、わかろうとすることにこだわること。それができなくなっているのではないでしょうか。昨日の「古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫」で書いた、「言葉の意味をわからなくする神」としての思兼神などというものをなぜ古代日本人が想定する必要があったのかが、もはやほとんどの現代人がわからなくなってしまっているのではないでしょうか。その人間自身の思考や認知に関する無関心さはいったいなんなんでしょうか。
他人とのコミュニケーション、周囲の環境とのコミュニケーションが不全になってしまうことを避けるためにも、わからないことへの耐性を鍛える必要があるのではないでしょうか。
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