古代研究―2.祝詞の発生/折口信夫

折口信夫さんの本がおもしろくてたまりません。

先日、このブログ上でも紹介した『古代研究―1.祭りの発生』に続けて、『古代研究―2.祝詞の発生』を読み終わりました。いまはさらに続けて、『古代研究―3.国文学の発生』を読んでいます。

折口さん自身が、この本に所収の「神道に現れた民族論理」に「日本人の物の考へ方が、永久性を持つ様になつたのは、勿論、文章が出来てからであるが、今日の処で、最も古い文章だ、と思はれるのは、祝詞の型をつくった、呪詞であつて、其が、日本人の思考の法則を、種々に展開させて来てゐるのである。私は此意味で、凡日本民族の古代生活を知らうと思ふ者は、文芸家でも、宗教家でも、又倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の研究から出発せねばならぬ、と思ふ」書かれていますが、僕も折口さんの本を読み進めながら、まさにそのとおりだと感じます。日本人の思考というものについて考えようとすれば、呪詞に立ち還ってみる努力が求められるだろうという考えが強くなってきています。

さらに範囲を広げていうなら、日本人の思考のみならず、先日の「なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか」でも書いたように、ことばと信念・希望といったものの関係、あるいは、それにともなうい行為としてのコミュニケーションを考えていくうえでも、呪詞や祝詞に目を向けることは非常に大切なことだと思えるのです。それはいわゆる脳科学や認知科学では手の届かない人間の思考や認知、ことばとの関係を考える方法を与えてくれるものだと思うからです。

そんな意味もあって引き続き折口さんに私淑していこうと思うですが、まずは中間報告として読み終えた『古代研究―2.祝詞の発生』について、そのエッセンスをご紹介していければと思います。

祝詞(のりと)

「祝詞の発生」がタイトルにも含まれている巻ですので、まずは祝詞の話から。

祝詞とは、「古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」でも紹介したように、初春前夜の大晦日の晩から初春の朝にかけて行われる一連の祭り―秋祭り・冬祭り・春祭り―において、祓え、禊ぎ、物忌みの意味をもつ真床追衾(まとこおうふすま)の儀を終えて、現人神として復活せられた天皇陛下が、高天原とおなじと考えられる高御座に登られ、天つ神のことばを宣り給われる、その詞が祝詞です。

その詞において、天皇は新しい一年をあらかじめ祝福され、人びとはその詞によって祝福されたとおりの一年がこれからはじまることを喜び、その詞をのべられた天皇への忠誠と天皇の健康を願う意味をもった寿詞を返すのです。
その寿詞がいまは極端に省略されて「おめでとう」と表現されていますが、元々は天皇へ自分の魂をあずけて忠誠を誓う言葉ですので、下から上に対してのみ用いられるのが「おめでとう」だったそうです。ですから上の人が下の人間に「おめでとう」をいうと忠誠を誓う意味になってしまうので、おかしな混乱が生じてしまうので、いまの用法はちょっとおかしいのだそうです。

話を祝詞に戻すと、「のりと」という言葉は元は発せられる詞を指したものではなかったようです。

のりととは、初春に当って、天皇陛下が宣処(のりと)すなわち、高御座に登られて、あらかじめ祝福の詞を宣り給う、その場所のことである。つまり、のりと屋のりと座の意味である。天皇陛下が神の唱え言をされて、大倭根子天皇の資格を得させ給う場所が、すなわち「のりと」である。そしてその場合に、天皇陛下の宣らせ給う仰せ詞が「のりとごと」である。最初には、あらかじめの祝福、すなわち「ことほぎ」であったが、しだいにそれが分化して、後には讃美の意味にもなり、感謝の意味にも転じた。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

詞を宣る処、すなわち高御座自体がのりとであって、そこで宣らせ給う唱え言自体は「のりとごと」と呼ぶのが元々の言葉の使い方だったようです。

こうした時間を経た語の意味の変化に目を向け、そして、意味の忘却によって生じる後世での合理的解釈に惑わされずに、古代のもともとの語の意味を探究していこうとする姿勢が、折口さんの古代研究のひとつの特徴をなしています。

御言詔持(みこともち)

ところで、この祝詞に代表される呪詞は、もともと天皇自身のことばとして発せられるのではなく、あくまで天つ神のことばを、天皇が代理で伝えるものです。それゆえ、折口さんは天皇を天つ神のことば=みこと(御言)をもつ役割としての御言詔持(みこともち)として捉えています。

ただし、代理といっても、僕らが考えるような意味での代理とはすこし違います。その代理の仕方はむしろイタコのそれに近い。なぜなら祝詞を宣る瞬間はすくなくとも天皇は天つ神と同格であり、天つ神とおなじ存在だからです。

このみこともちに通有の、注意すべき特質は、いかなる小さなみこともちでも、最初にそのみことを発したものと、すくなくとも、同一の資格を有するということである。それは唱え言自体の持つ威力であって唱え言を宣り伝えている瞬間だけは、その唱え言を初めて言い出した神と、全く同じ神になってしまうのである。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

つまり、これは天皇のみが「唱え言を初めて言い出した神」と同格になるというのではないのです。天皇が発せられた祝詞をまた別の人びとに伝える役割=みこともちの人も同様に、その言葉を発するときだけは神と同格だったのです。

天皇は神のみこともちであり、それゆえに倭の神主でした。神事が多く、常に物忌みをし、祭りを行わなくてはなりませんでした。一年を通じて祭りに忙殺されていたわけです。
そこで中臣という御言詔持(みこともち)ができたのです。中臣は、天皇の御言葉を群臣たちに伝達する職のものでした。中臣は天皇の御言葉を伝達するのが役割でしたが、そのうち、中臣の詞が祝詞といわれるようになります。いまの祝詞はその中臣の祝詞が平安期の延喜年間に書きとられたものです(『延喜式』)。

また、天皇と神との中間にあるものを中天皇(なかつすめらみこと)といいました。多くは皇女や妃がこの役にあたりました。推古天皇や持統天皇などの女性の天皇は本来、この中天皇にあたります。この中天皇の役割もまた中臣同様に天皇の御言を伝える役割をもっていました。それゆえ中天皇は天皇の妃であると同時に、最高の巫女でもあったのです。
みこともちの役割をもった人が神と同格にみられるということは、神に奉仕する高級巫女が神の資格を得るという現象にもつながりました。神に奉仕する高級巫女たちは職掌上、人びとと離れた生活をおくっているがゆえに、人びとは神のことばを伝える巫女も神としてみたのです。
天照大神も、本来は日の神ではなく、日の神に仕える高級巫女であるおほひるめむちであっただろうと折口さんは述べています。

また、みことである祝詞には、それを唱えると、どんな時間も場所も、その祝詞が最初に唱えられた原初の時間と場所になると考えられていました。

みこともちをする人が、その言葉を唱えると、最初にみことを発した神と同格になる、ということを前に云ったが、さらにまた、その詞を唱えると、時間において、最初それが唱えられた時とおなじ「時」となり、空間において、最初それが唱えられた処とおなじ「場処」となるのである。つまり、祝詞の神が祝詞を宣べたのは、特にある時・ある場処のために、宣べたものと見られているが、それと別の時・別の場処にてすらも、一たびその祝詞を唱えれば、そこがまたただちに、祝詞の発せられた時および場処と、おなじ時・処となるとするのである。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

こうした古代人の思考は、一地方の名にすぎない倭=大和が、天皇の勢力が広がる=天皇のことばが広がると同時に広い範囲を指す言葉になり、最終的には日本そのものを指す語になったことの根本をなすものです。
また、本来は高天原にあるはずの天安河原や天岩戸、天香具山などの天を関する場所が同時に、実際の地名として存在することもこうした古代人の思考によるものだと折口さんはみています。

八心思兼神(やごころおもいかねのかみ)

語ということを考えるうえでおもしろかったのは、八心思兼神(やごころおもいかねのかみ)についての話でした。思兼神は古事記や日本書紀にも登場する神ですが、正直よくわからない神です。ににぎのみことについて高天原からおりてくるのですが、いまひとつその役割がわかりません。

折口さんは「日本の昔の文章には、一編の文章の中に、同時に三つも四つもの意味が、兼ねて表現されている」といいますが、おもしろいのはその原因を思兼神にみているところです。

思兼神とはたくさんの心を兼ねて、思う心を完全に表現する、祝詞を案出する神である。つまり、祝詞の神の純化したものである。こういうふうに、日本の古い文章では、表現は一つであっても、その表現の目的および効力は複数的で、同時に全体的なのである。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

いまの僕らは言葉の意味を固定したものとして考えたがります。意味のゆれを嫌い、あいまいな言葉を使う人の能力を疑ったりします。ただ、そうした言語観はあくまで近代以降のものだと考えるべきです。以前に「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」で紹介しましたが、イギリスにおいても17世紀に英国王立協会(ロイヤル・ソサエティ)がシェークスピア演劇を排斥するという活動を行い、それに成功していますが、その活動が推進されたのは、シェークスピア演劇で用いられる英語が書かれた台本ではなく、舞台で声を通じて発話される台詞であり、それゆえに非常に両義的・多義的な意味を含んでいたからです。英国王立協会がその後、普遍言語といわれる言語のラディカルな改革運動をはじめ、実質上の初代総裁であった数学者のジョン・ウィルキンズによって0と1とバイナリー(二進法)によって何でもあらわせるというアイデアを提出するようになったことも、そこで紹介したとおりです。

このようなこともあわせみてもわかるように、言葉というものは本来多義的な意味を含んでいて当然で、それは日本語に限ったことではなかったのです。ただ、おもしろいのは古代の日本人は、そうなる要因として思兼神という存在を想定したところです。

折口さんは、思兼神が同時に「言葉の意味をわからなくする神」であったともいいます。

この神は、いろいろな意味を兼ねた言葉を、唱え出した神であった。「思ふ」という言葉を、我々は、内的な意味に考えているが、昔は唱えごとをするという意味があったと思われる。かけまくもかしこきという言葉には、発言と思考という意味がある。これとおなじく「思ふ」にも、唱えごとをすることを意味した用例があったらしい。思兼というのは、いろいろな意味を兼ねて考える、そういう言葉を拵えた神の名であった。すなわち言葉は、一語にも、いろいろな意味を兼ねたのである。
折口信夫「古代における言語伝承の推移」『古代研究―2.祝詞の発生』

「思う」が内的な意味ではなく、唱えるというアウトプットを含んだ語であったはずというのは、僕が「早く多く間違えよう」をはじめとするエントリーで常々アウトプット=思考であると述べているのと根本はおなじであるはずです。個の意識というものを取っ払ってしまえば、頭のなかで考えることと口に出すことに差はないはずです。また、つい最近まで人間が本を読むのにも黙読ということができず常に音読していたことも踏まえると、思うと唱えるがほぼおなじであるということもイメージしやすくなります。かけまくもかしこきが発言と思考の両方の意味をもち、それが何より思い兼ねる思考するということなのであれば、それを思兼神という外来魂のしわざと捉えた古代日本人の感性は鋭いというしかありません。

そう。それは「なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか」で書いたような、信念や欲求というものが常に言葉をはじめとした外部からの情報の力を借りずには成立しないこと、そして、それは実際に実現されるよりも先に、祝詞における予祝同様、先に言語において実現されるということと無関係ではないと思っています。そして、何より、それが自分の外からやってくる外来魂=思兼神を想像した古代日本人の思考力を僕らはもう一度しっかり見直すべきではないかと思うのです。

と、長くなるのでこれ以上は書ききれませんが、折口信夫さんの思想にはこんな風に山ほど宝が埋まっています。それを掘り起こさないなんてあまりにもったいなさすぎるのではないでしょうか。



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