2009年08月17日

なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか

人間にとって自己実現っていうのは、一体何なんでしょうね。
自己表現欲だとか、他人とコミュニケーションしたがる(特に自分の話を聞いてもらいたがる)というのは何でしょう。

古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」ですこし紹介したように、古代においては天皇が宣る祝詞で予祝(ことほぎ)されたことがらは、現実になると考えられていました。これは言霊信仰につながる話で、天皇のことばだけでなく、「見れど飽かぬ」という『万葉集』に50近くあるといわれる表現が「見る」ことで自然のもつ生命力を肉体に宿らせると考えられていたように、古代人にとっては、ことばや見ることで対象を模倣することでその対象のもつ力を自らに宿らせることができると考えられたのは「古代人にとっての装飾」でも紹介したとおりです。

こうした表現で、自分自身の欲望を実現できるとする信仰は古代の人びとに限ったことのように思われがちですが、どうもそうではなく現代に生きる僕らもすくなからず保持しつづけている信仰であるような気がしてきました。
そうでなくてはブログを書いたり、tiwitterでつぶやいたり、着飾ってみせたり、誰かにおしゃべりせずにはいられなくなったりという、自己表現欲というか、コミュニケーション欲の説明がうまくできないような気がするのです。

何が自己実現を可能にするのか

古代人がことばを発すればそのとおりのことが実現されると考えたり、相手の名前を知ることで相手をコントロールできると考えたのとは程度こそ大きく違いますが、現代人が他人に対して何かコミュニケーション行為を行う場合もすくなからず自己実現や自分が表現したことの現実になることを希望する面がすくなからずあるように思うのです。

現代人の理屈でいえば、それは自分が実現したいことを相手にことばとして話し、そのことばを相手が理解し、その内容を相手が聞き入れてくれるからこそ、自分の希望が実現するということになる。ところが古代人はそうは考えていなかったようです。

人間神もしくは神聖な超自然的な力を与えられた人間、という観念は、宗教の歴史においては、いまだ神々と人間とが同じ秩序の中に存在しているとみなされていた初期の時代、つまりは、人間と神々とが越えがたい深淵(後の世の者にとってはそう思える)によって引き裂かれてしまう以前の時代に属するものである。(中略)初期の人間は、人間神もしくは神人間の中に、自らもやはり持っていると固く信じて疑わなかった超自然的な力の、単に程度の高いものを見ていたに過ぎない。
ジェイムズ・ジョージ・フレイザー『初版 金枝篇〈上〉』

超自然的な力で自分の希望をかなえる能力は誰もに備わっていて、「単に程度の高いもの」をもつ者を神としたにすぎないようです。人は多かれ少なかれ超自然的な力で、自己の希望を実現すると固く信じていたのが古代人の信仰だったのでしょう。そこにはおいては神と自分自身の差はそう大きくはなかったわけです。

ミコトモチ

この神と人との差が小さいことは、日本の古代においてもあったようです。例えば、折口信夫さんは『古代研究 2.祝詞の発生』のなかで次のように書いています。

天皇は、天上の神の御言詔(みこと)を伝達して、その土地の人、および、魂に命令せられる。その間は、天神と同じになられるのである。(中略)天皇は、天つ神とは別なお方であるが、同格になられることがあるので、我々の信仰では、天皇と、天つ神とを分つことが、できなくなっている。
折口信夫「古代人の思考の基礎」『古代研究 2.祝詞の発生』

天つ神と天皇の区別が明確でなかっただけではなりません。神や天皇のことばを伝える役目―ミコトモチ―を担った巫女などもしばしば女神と考えられたといいます。

そこに表現された内容が必ず実現する力をもった神のことば、天皇のことばを伝える役目である人が伝える、そのことばもやはりおなじ力をもっているわけで、それなら、そのことばを実際に伝えるミコトモチ(御言詔持ち)も神と同格に扱われても不思議はありません。おなじ実現力をもつのであればとうぜんでしょう。

なぜ希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのか

日本においては、こうしたことばの力=言霊を信じたがゆえに、めったなことではことばを口にしない―ことあげしない―ようにする信仰もありました。ことばにすればそれが現実になってしまうかもしれないからです。

こうした考えを現代的にみて非科学的だとするのは簡単です。ただ科学的にみて正しくないということが、必ずしも古代的にみて正しくないとすることを証明することは科学にはできないはずです。そこには単に科学的な正しさと古代的な信仰の正しさの2つのまったく別の信仰があるにすぎません。

そんな、いつまでたっても埒があかなさそうな「どっちが正しい」論争に加担するよりも、僕としては、なぜ古代から形は変わっても、人間における自己実現が常に言葉やコミュニケーションと結び付いているのかということのほうに興味があります。
言いかえると、なぜ自己実現あるいは単なる希望の実現が情報の編集行為と結び付いているのかです。

このあたりはちょっと深堀りしていくと面白そうなテーマだなと思いました。

 

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タグ:言霊 編集
posted by HIROKI tanahashi at 01:13 | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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