古代研究―1.祭りの発生/折口信夫

世の中、お盆休みの真っ只中でしょうか。僕自身は普通に働いていますが。
そういうタイミングだからこそ、この本を紹介しておこうと思います。こういうタイミングにでも乗っておかない限り、いつまでたってもこの本のことを書けなさそうな気もしたので。
紹介するのは、折口信夫さんの『古代研究―1.祭りの発生』です。

さて、時期的にはいまは夏祭りの時期でもあるでしょう。
ただ、この夏祭り、実は四季の祭りのうちでは一番遅れてできたものだそうです。

もともと古代においては四季の祭りといえば、秋祭り・冬祭り・春祭りしかなかったといいます。
しかも、その秋祭り・冬祭り・春祭りは、なんと最初は一晩のうちにすべて行われていました。大晦日の宵から秋祭りをはじめ、続けて冬祭りを行い、次の元旦の朝が明けると春祭りを行ったのだそうです。
それゆえ、あき・ふゆ・はるがもつ意味も、中国より暦が伝わってくる前までは、いまのような四季の秋・冬・春とは違う意味だったと折口さんは書いています。

その年の収穫物を神に捧げ報告する刈上げ祭りが秋祭り
マレビトである常世神が訪れるのが冬祭り。この冬祭りは鎮魂式でもあり、天子の物忌みの期間でもあります。
そして、夜が明けるとともに天子は物忌みから開けて、高御座にのぼり、祝詞を宣る。この祝詞はあらかじめその年の祝福をする。ことほぎ=言祝によって、その年の豊作や健康をあらかじめ祝福する。これが春祭りです。

村には歴史がなかった。過去を考えぬ人たちが、来年・再来年を予想したはずはない。先祖の村々で、あらかじめ考えることのできる時間があるとしたら、作事はじめの初春から穫り納れに至る一年の間であった。
折口信夫「若水の話」『古代研究 1.祭りの発生』

春祭りで予祝されたことを、その年の終わりに報告するのが刈上げ祭りである秋祭りというわけで循環しているのです。

みたまのふゆ

そうやって大晦日の夜から元旦の朝にかけて行われていた秋祭り・冬祭り・春祭りが次第に分割して行われるようになる。最初に分かれたのが秋祭りだそうです。分かれると祭りの形式がだんだんと複雑になる。そして、今度は冬祭りと春祭りが分かれる。

夏祭りができたのは、ずっとあとのことで、陰陽道の影響で、冬祭りのなかで行われていた冬祓へを夏祓へとして行うようになってできたそうです。
冬の祭りでは、祓へのあとに禊ぎがあり、それが鎮魂式=みたまのふゆの前提になっていたといいます。みたまのふゆの「ふゆ」は「振ゆ」であり「殖ゆ」でもあるというのは、前に「日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで/土橋寛」でも紹介したとおりです。つまり、みたまのふゆは、御霊が殖えているんですね。

鎮魂というと魂(たま)を鎮める意味で自分の魂が外に出ていかないようにするものとして近年では捉えられていますが、もともとはマレビトの外来魂を力をもらい、それによって天子は春に新しい現人神として蘇生する儀式だったのです。

白川静さんが『初期万葉論』で分析を行っている、柿本人麻呂が軽皇子の安騎野の冬猟を詠んだ歌も、まさにこの冬祭り=鎮魂式の様子を歌ったもので、天武天皇の子であり皇統をつぐ前に没した草壁皇子のさらに子息である軽皇子に、天皇霊を継承するためのみたまのふゆの儀式だったのでしょう。

マレビトをもてなす

前に「日本芸能史六講/折口信夫」というエントリーで、折口さんの「翁の発生」を紹介したときにも書きましたが、折口さんはこうした1年に1度訪れた祭りが徐々に回数を増やし、マレビトが訪れる回数も増えたと指摘しています。

日本人は、常世人は、海の彼方の他界から来る、と考へてゐました。初めは、初春に来るものと信じられてゐたのが、後は度々来るものと考へる様になりました。春祭りと刈上げ祭りは、前夜から翌朝まで引き続いて行はれたものでした。其中間に、今一つあつたのが冬祭りです。ふゆまつりは鎮魂式であります。あき・ふゆ・はるが暦法の上の秋・冬・春に宛てられるやうになると、其祭りも分れて行はれる。其祭りの度毎に、常世人が来臨して、禊ぎや鎮魂を行うて行く。かうなると又、臨時の祭りが、限りなく殖えて来ました。
折口信夫「翁の発生」『古代研究 1.祭りの発生』

古事記にも登場する思兼神も少彦名命も常世からくる常世神です。マレビトであり、外来神です。神というより精霊といったほうがいいのだと折口さんはいいます。神の観念がうまれる前は、精霊や魂(たま)でした。
そうした外来神=魂がマレビトとして訪れるのを招き、祓へをし、禊ぎをし、鎮魂の物忌みにはいった天子に外来魂を宿らせることで、天子は現人神となる。

このマレビトをもてなす御馳走としての贄を「あるじ」といった。また、このマレビトを歌と舞でももてなした。そこに芸能の発生もあるといいます。
神と遊ぶところに、この国における遊びの原点があるのです。

オヤたちの妣が国

祖と書いて、オヤと読ませる。
この『古代研究―1.祭りの発生』に所収の「妣(はは)が国へ・常世(とこよ)へ」という論考を、折口信夫さんは「われわれの祖(オヤ)たちが、まだ、星雲のふる郷を夢みていた昔から、この話ははじまる」と書くことからはじめています。
『古代研究』と題された4巻シリーズとしてまとめられた数々の論考のテーマである古代あるいは古代人を、折口さんは自分とは遠く離れた関係の薄い人びととしてみるのではなく、オヤと呼ぶのです。

すさのをのみことが、青山を枯山なすまで慕い嘆き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われわれの祖たちの恋慕した魂のふる郷であったのだろう。いざなみのみことたまよりひめの還りいます国なるからの名というのは、世々の語部の解釈で、まことは、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであった。
折口信夫「妣が国へ・常世へ」『古代研究 1.祭りの発生』

そのオヤたちが憧れた、ふる郷は遠く海の向こうの常世の国でした。それは「すさのをのみこと」や「いなひのみこと」も憧れた「妣が国」でした。

水の女

マレビトたちは、そんな「妣が国」である常世からやってくる。

禊ぎに用いられる若水も、そんな常世の国から湧き出る水と考えられていました。その若水を用いて、鎮魂前の天子の助けをするのが水の女である高級巫女でした。藤原女・中臣女がその役にあたったといいます。

この沐浴の聖職に与るのは、平安前には「中臣女」の為事となった期間があったらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである。
折口信夫「水の女」『古代研究 1.祭りの発生』

この天の羽衣は物忌みの際に天子を覆うものであり、水の女の聖職である巫女は、湯の中で自身だけが知る結び目を解いて、天子を物忌みから解放するそうです。
藤原氏の「ふじ」は「ふち」であり、淵として残った古語だといいます。

こうしたことがあるから折口さんは『死者の書』ヒロインを藤原南家の郎女として描いたのではないでしょうか。

そうした助けを受けながら、天子は物忌みの期間のあと、母体を介さぬ誕生=蘇り=黄泉がえりをはたすのです。常世の国からは現れでる。現人神というときの「ある」は有・在の意味というよりも、現・荒・顕の意味に近く、出現の意味をもっていたそうです。
和魂(にぎみたま)荒魂(あらみたま)という場合の「あら」もおなじように、出現の意味をもっていたのでしょう。

編集の力

祭りというのは本来こうしたものだったんですね。
マレビトを招き、タマフリをし、新しい年をはじめる。出現させる。そののち、マレビトを送り返し、予祝されたとおりの1年を過ごす。僕らは完全にその元々の意義を忘れてしまっていますが、僕らの祖先=オヤたちはそうした生活を過ごしていたんですね。

それにしても、この本を読んであらためて編集のもつ力を感じました。きっとこの本はバラバラに書かれた論考をこのとおりに並べないと「祭りの発生」というタイトルにはならなかっただろうなと感じたからです。この並びであったからこそ、僕はこの本から祭りの発生について学べたのだろうという気がしています。別の並びであれば、まったく別の学びであっただろう、と。

その意味で、この本を編集された方はすごいな、と。



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