自分自身の心の動きの正体にこだわってみる

最近のワークショップなどの講義では「誰のせい?」という話をすることが多いです。その話の最後には「誰のせい?」かを問う姿勢とは別に、「仕方がない」という受け止め方があることを指摘しています(例えば、突然雨が降って来て濡れてしまうのは「誰のせい?」ではなく「仕方がない」)。



ただ、それ以前に問題を自分自身が関わる問題として受け止められるかということがあるのかもしれません。
問題を他人事として受け止めることができない。自分自身の問題として受け止められない。他人のよくないところを見つけることはできるのに、自分のよいところを見つけられない。いや、そもそも自分自身に向き合うことができず、自分が何を言っているのかを考えようともしない。考えることから逃げてしまう。
そういう姿勢に自分自身が陥っていないかどうか。

「誰のせい?」と責任の所在を外にばかり求めるのではなく、逆に他人の問題をも自分の問題として受け止めることからはじめるべきかもしれません。
何らかの対象に対して「それは違う」とか「これは問題だ」とか感じたら、それは単にその対象が一方的に悪いわけではなく、あくまでそう感じとった自分自身の価値観との共犯関係において悪いわけですから。
対象とともに共犯関係にある自身の解釈という心の動きの正体にこだわってみることができるか/できないか。そこに何かをつくりだしていく人と、傍からただ文句ばかり言い続けていく人の分岐点があるのかもしれません。

他者ではなく自分自身に目を向ける

たとえば、ある品が使いづらいとしたら、それはその品の側の問題であると同時に、使いこなせない人の側の問題だと考えてみる。ある文章が読みづらいとしても、それは読みづらい文章と読むための忍耐力に欠ける読者側の問題でもあるという考えからスタートしてみる。つまり、何かに対して不満を感じたら、それを自分のせいだとして引き受けてみる。共犯者としての自分に目を向けてみる

それをしなければ、単に責任を相手に対して一方的に押し付けているだけで、自分はその事象に対する傍観者どころか、自分自身の傍観者になり下がってしまいかねません。ワイドショーのコメンテーターのように、傍観者的発言だけを繰り返す思考停止の機械になり下がってしまいます。

そうではなく、相手側の悪いところはひとまず置いておいても、自分がなぜそれを悪く感じたのか、その悪さを直すためには自分の何が変わるべきかに目を向けるべきではないかと思うのです。生産的な思考はそこからしか生まれてこないのではないか。そこに自分自身が存在するのだから、そこに目を向けなければ、結局、自分から逃げるだけになってしまうのではないか。自分から逃げていることを誤魔化すために、他者の言動にばかり目を向けて他人の間違いや失敗だけをあげつらうことになってしまうのではないでしょうか。

もちろん、その逆に何らかの対象によい評価をする場合もおなじで、それは対象自体がよいのと同時に、そのよさをちゃんと評価できる人の側のよさでもあるのだから、それは結局、自分の好みというバイアスを探ることにつながるでしょう。

自分自身を現状把握するところから

「まわりを変えたければ、まず自分が変われ」。よく言われることです。自分に何かに対して不満を感じているのだとしたら、その半分は自分の責任であるわけですから、まわりを変えようとするより、手っ取り早く自分の側を変えてみる方が改善への近道であるというのは理にかなっているように思います。

自分自身を変える。その努力をする前提として、変わったかどうかを認識するための指標として、まず現時点での自分を知る必要があると思います。ある対象に対して自分がどのような評価をするのか、また、その評価は自分自身のどんな価値観に由来しているのか、です。

それは自分の心の動きにしっかりと目を向け、その動きのメカニズムを考えるという作業を自分に課すということになるのでしょう。
何か自分にとって不都合や不愉快なことがあったとしても、それを対象に対して文句をいって終わりにする (思考停止モードに移る)のではなく、なぜ自分がそう感じたのかを考えてみることを優先するのです。

他人との意見の食い違いも多くは立ち位置の違いからくるものだったりします。その際、相手のことをどうこういうよりも自分のポジションを反省するほうが実は自分にとっては有益だし、結果として早く相手との溝を埋めることにもつながりやすいはずです。
ようするに、他人のせいにするより自分のせいだと捉えて、その改善の方向性を探るのです。それは自分の物事の見方を広げることにもなる。自分の認識力や問題解決力を高めることになる。

仕事ができる人というのはこういうことを普段からやりなれているのでしょう。一方で仕事に問題がある人は自分の責任を引き受けることができずに、他人の文句ばかりいうばかりで、結局自分の環境もすこしもよくならなかったりするのではないでしょうか。

それまで見えなかった自分が見つかるだけでも価値はある

そのためにも逃げずに自分に向き合う必要がある。何かというとすぐに他人のせいにして逃げるのもアレですが、かといって自分はダメだ、自分にはむずかしいと繰り返すばかりで、そうなる原因=心の動きのメカニズムを探り、改善のためのポイントを見つけようとしないなら、それも結局のところ、自分から逃げているのと変わりません。

そうではなく、自分の立ち位置の問題点もしっかり認識しながら、相手の立ち位置との差異も踏まえたうえで、統合的な解決策を探る道を見つけていく。いや、改善策など見つからなくてもいいのかもしれません。改善されなくても自分自身に目を向けて、それまで見えなかった自分が見つかるだけでも非常に価値のあることだと僕は思います。
だって、世の中が自分の都合よく変わることばかりを望むなんて、それこそ不毛だし、非現実的ですから。それよりも手っ取り早く自分自身を変えていく努力をし、その点において結果を出すことを望む方が健全なのではないでしょうか。

人間を知る近道のひとつはきっと自分自身に目をむけること

テレビをみながら独り言をいうように、他人の文句ばかり言っているようではだめです。それよりも自分自身の心の動きをしっかりと引き受けなくてはいけないと思います。そして、「ことばにならないものがある」などということばで妥協することなく、徹底的になぜ自分はそう感じるのか、そう考えるのかを探っていき、それをことばとして積み重ねていく必要があると思う。

人間を知る近道、他人のことを理解する近道のひとつは、きっと自分自身に目をむけることなんだと思います。自分自身に目を向けるといっても、いわゆる自分探しとは違います。いわゆる自分探しはあたかも変わらない自分があることを想定して、変わっていく自分に背を向けた行為であるように思います。
そうではなく、自分自身を固定しようとする罠にはまらずに、自分が変化してしまうならそれを追いかけ、繰り返し自分自身を問い直していくことが必要だろうと思います。さらには、変わっていく自分とその変化の舞台となる環境の側の動きに目を向けられるようになると、また、そこで視野は広がって、物事が違ってみえるようになってくるでしょう。

間違いを指摘する側より、指摘される側にまわる

それには自分のいまの力で認められるものよりも、認められないものや認めるのがつらいこと、わからないもの、相対するのにパワーがいるもの、そうした対象にぶつかっていく姿勢が必要なのだろうと思います。ちょっとマゾヒスティックになるくらいがいい。自分を変えるには、自分の内にあるものからではなく、自分の外側にあるもので自分にすこし拒否感があるものを相手にするとよいのではないか、と。
なぜなら、その拒否しているものこそが実は自分が目を背けている自分自身だったりするのだから。

間違いなんて恐れる必要はなく、どんどん自分自身が自分自身について考えたことを口にしていくのです。間違いなどは気にしなくていい。なぜなら、間違いはないのだから。間違いなんてものは、外から傍観者が勝手に間違いだと決めつけるだけだから。
傍観者気取りで他人の間違いを指摘するばかりの側にまわるよりも、間違いをおかしながらもなんとか自分自身で答えをみつけるために必死に考え行動しつづける人のほうがよいのではないでしょうか。

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