ところが、それに続けて松岡さんはこうも言います。
「現在の日本はこれがうまくできなくなっている。世界のスタンダードに合わせて、何もかも同型・同質に揃えようとしすぎているし、ミニマルなシンプル・デザインが流行して、文様の扱い方が超ヘタクソです」(『神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く』)と。
多様性を失った生活環境
僕はこの「模様を生む力の衰え」、「文様の扱い方のヘタクソさ」の原因のひとつに、僕らが生きる環境が多様性を欠いた均一のものになってしまったことにあるのだろうと思っています。『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』という本のなかで、養老孟司さんがこんなことをいっています。
土器の形や模様はまさにデザインですが、それが一千万年前の虫の系統と重なります。縄文人は自然の中で暮らしていましたから、自然の微妙な形の違いを感受して、作る土器のデザインの違いとなりました。養老孟司「生物と表現のパラドックス」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』
縄文人は多様性をもつ自然の微妙な形の違いを感受できたからこそ、作る土器の文様にも多様性を表現することができたということです。
「どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする」や「眼の力、感性の声」で書いたことにもつながる話ですが、見えないものは作れないのですから、違いを見分けることができなければ作り分けることもできません。多様性をもった環境において、それぞれの違いを見分けつつ、かつ、それを好みというバイアスで振り分けられる力がなければ、表現の懐の深さも失われてしまうのも当然ではないでしょうか。
どんなに頑張っても人間が作るもののバリエーションは、自然の生み出す多様性には勝りません。生きる環境に人工物が増えれば増えるほど、相対的に多様性は失われていくはずです。
その多様性の減少が物を見る眼の力を減退させ、「模様を生む力」の弱体化させているひとつの原因にもつながっているのだろうと思うのです。
自然のうつしとしての焼物
ただ、僕は、人工でつくられたものすべてが多様性を欠いているというわけでもないと思っています。たとえば、一番上の写真にあげたような器の裏側は、それが人工物でありながら自然に負けない多様性をもっていると感じられます。
「焼物はその点、徹底した意識作業を経てもなおかつその上に、最後は火の仕業が加わって生まれてくる」と樂吉左衛門さんはいいます。利休の茶碗をつくったことで知られる楽焼=長次郎の15代目となる方です。
焼物は作り手がどんなにその出来をコントロールしようと工夫しても、火という完全にコントロールすることがむずかしいものを手段として使っている限りにおいて、人工物でありながら自然のおもかげを映すのでしょう。
それで〈焼物屋さんは火任せで結構ですな〉と言われたりもするんですが、自意識の産物がそのまま作品になるのではなく、不完全で欠けた、相対的で流動性をもったひとつのプロセスが関与することで、自分自身の世界が変質する。そのことに私は〈救い〉のようなものを感じるんです。樂吉左衛門「日本文化が生まれる場と条件」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』
すべてを自分でコントロールしてしまおうと思えば、そこで多様性は失われる。ただ、そこで自分の外の世界の流動性をもったプロセス(火、自然)を受け入れ、受け止めることで自分の世界が変わるのでしょう。できたものは完全に自分で作ったといえなくなる代わりに、多様な世界へのつながりを維持したものになるのではないでしょうか。
もちろん、それは自然のなすがままになるというのとも違います。自分が出来のすべてをコントロールできないまでも、出来たものの良し悪しを選ぶのは結局作り手である人間です。そこには人の解釈が加わります。盆栽や庭の植物の手入れをするのもおなじです。自然を完全にコントロールしようというのではなく、そこに人の好みの解釈を加える。それが模様を生む力につながっていくのではないかと思います。
小石原焼の器
そんなことを想いつつ、僕の家にある器のうちから、裏側の景色が気に入っているものをいくつか紹介してみようと思います。民藝の器も表側は釉などを使って、職人がある程度の均一性をもたせようとした人間の力の面のほうがつよいのですが、裏側はむしろ火の具合や釉薬の垂れ具合などによって自然の偶然性の力がつよくでているので、おもしろいんです。まずはそれこそ昨日のエントリーでも書いたように裏側の景色に惹かれて買った、福岡・小石原焼の器から。
どうですか? この複雑な文様。さまざまな色合いの文様が複雑に絡み合ってひとつの景色を構成しています。これは人の手ではなかなか生み出せないものではないかと思います。しかも色が淡くてきれいだなと思って、一目ぼれしたんです。
ちなみに表側はこうです。
益子焼の器
次に紹介するのは、栃木・益子焼の器。これは長く垂れた釉薬の具合が絶妙だな、と。
焼物ではいわゆる「垂らし」と呼ばれる釉薬を垂らして文様にする技法がありますが、実はあれはあんまり好きじゃないんです。どうしてもわざとらしく思えてしまうので。ただ、この偶然できた垂らしはそれと違う。わざとらしさを感じさせない、自然にできた釉薬の垂れ具合がすごくよいなと思っています。
これも表側はこういうもの。この皿はこの表側の益子焼の伝統ともいえる文様も好きです。
沖縄・北窯の器
最後は、沖縄・北窯の器です。これはもう野趣あふれる力強さがたまりません。
僕がなぜこの器の裏側が好きかというと、実は表側はこんな感じだからです。
この表側のポップさのある表情と、裏側の野趣あふれる表情のギャップが好きなんです。
多様性:ものづくりとデザイン教育の課題
いずれも人の手では生み出せない景色をみせてくれるところが、見ていて飽きません。おなじ器を2枚買っても、裏側の表情はまったく違っていたりする。それが民藝の器の魅力のひとつです。こういうのを見ていると、均一化された商品の素っ気なさが不満に感じてくるんですよね。
こうした人為を超えた多様性をいかにして人工物の内側にも取り込んでいくかということが今後のものづくりの重要な課題ではないでしょうか。僕が『デザイン思考の仕事術』の「終わりに」で「デザインしすぎない」ということを書いて締めたのはこうした思いも強くあったからです。
また昨日の「それでも、デザインの核は装飾である。」などで書いたように、あらためて装飾性ということについてきちんと捉えていこうと思ったのは、こうした装飾や文様、モノの色・形の問題を人間の認知や感性の多様性の維持という面から考えていかなくていけないと思うからです。合目的性という機械主義的、合理主義的な発想を超えた視点から人とモノ、環境との関係をもう一度しっかり捉え直していくべき時期なのでしょう。
そのためにも多様なもののもつ違いを見分け、かつ、その違いと自身の好みがどう連動するのかをしっかりと感じとる力を今後、どう養っていけるようにするかというのも教育の課題ではないかとも思っています。
というわけで最後にもうひとつ樂さんのことばを。
自分の焼物ができるだけ〈デザイン〉でないことをもって、評価するようなところがあります。〈これ、デザインになってないからいいなぁ〉といった具合なんです。焼物においてここが膨れ、あそこがへこんでいることに意味はないわけですが、その意味を造形的に貫徹し、整理していくとデザインになります。そういうふうにわたしは〈デザイン〉という言葉を使います。樂吉左衛門「日本文化が生まれる場と条件」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』
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