それでも、デザインの核は装飾である。

すこし間が空いてしまいましたが、「デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである」というエントリーを書いたら、「装飾はデザインという行為の一手段に過ぎない」とか、「こればっかりは聞き捨てならない。『装飾』という言葉は違うと思う」といった反論がいくつかありました。
まぁ、ちょっといきなりあれだけを読むと誤解されるかもしれませんね。

でも、そもそも、どうして「装飾」という言葉にそんなに敵対視した感情が起こるのかがわからず、ちょっとびっくりでした。なぜ「装飾」という言葉をそれほどまでに拒否し、「一手段に過ぎない」なんて地位に落とし込めてしまうのか。「装飾」というのは、そんなにも嫌悪の対象になるものであることが驚きでした。

デザインとは問題解決? はい。もちろんです。

このブログを長く読んでいる方や、僕の本(『ペルソナ作って、それからどうするの?』『デザイン思考の仕事術』)を読んでいただいた方なら、御存じすぎるくらいのことですが、僕はすくなくともこの2年のあいだ、「デザインとは単に形や色などの表面的なスタイルを考え、作り出すだけの仕事ではない」と繰り返し唱え、デザインとは問題発見~問題解決の仕事であると様々な場面で言い、
  • デザインは生活に秩序を提案し実現するもの」だと、
  • 物に意味を与える仕事」だと、
  • いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら、その仕事はデザイン」だと、
  • あえて定義するならデザインとは、人間自身の生活、生き方、そして、生命としてのあり方を提案する仕事」だと
書いてきました。

一般的なイメージとして、デザインが色や形などのスタイリングを決める仕事だと思われてしまっていることに対して、

僕らは長いあいだ、勘違いしていたようです。デザインの仕事というのがあると誤解していたんです。実際にはデザインとは僕らが勘違いしていたような狭い範囲の仕事ではなかったのです。

と書いた『デザイン思考の仕事術』の「はじめに」の一部は、本の帯の裏面にも印刷されています。
このような意味でデザインを捉えるように、何度も繰り返し言葉を費やし、ワークショップの場なども設けさせていただいたのは、ほかならないこの僕です。
なので反論いただいたことは、僕自身が2年間言い続けてきたことでもあるわけです。

もちろん、その活動が必ずしも多くの人にいきわたるほどの力があったなんて僕自身思いません。むしろ、力不足でそのことばが生き届いていないがゆえに、誤解を生まれてしまうという面もあるのでしょう。

デザインの必要条件と、よいデザインの必要十分条件

僕が考えを変えたと思ってのことなら、それも違うんです。
「生活に秩序を提案し実現する」ことも「物に意味を与える」ことも「いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をする」ことも「人間自身の生活、生き方、そして、生命としてのあり方を提案する」ことも、デザインする上での必要条件であるとの思いは、僕のなかですこしもゆらいでいません。そうした視点に立たないデザインはそれこそデザインとはいえないと思っています。その意味で反論をしてくれた方の考えと大きく違わないのでは、と思っていますが、どうでしょう?
いや、反論してくれた人以外にも、僕のあのエントリーを誤解した人がいるかもしれませんが、デザインが生活に秩序を提案し実現するものであるという考えに変わりはありません。

でもね。僕はそれでも「デザインの核は装飾である」と考えてみようと思う気になったんです。
先の条件はいずれもデザインの必要条件ではあるといまも固く信じていますが、それ以上に装飾性は、よいデザインの必要十分条件ではないかと考えるようになったのです。

物心は二相ではなく不二である

なぜ、僕がそちらの方向(デザインにおける装飾性)に思考のベクトルを向け直したのか。

それは「問題解決」的な意味でのデザインに視点を向けただけでは、デザインを使う側の立場に立った際の評価基準を説明しきれないところがあるからです。
人は、単に自分自身の問題解決をしてくれるだけのものでは、必ずしもそれをよいデザインとして評価しない側面があります。それは決してデザインをスタイリングのことだと誤解しているからではなく、デザインの言葉を抜きにした物事への評価としてそうした側面が人間にはあるということです。僕がこれまでと違う方向に思考のベクトルを移したのは、まさにそのことに目を向けなくてはいけないと思ったからです。

どう考えても、その人にとっての問題を解決してくれさえすれば、人はそのものに満足するような生物だとは思えません。合目的性や、利用時の使い勝手や不満のなさのような目的ドリブンなデザインだけでは人は満足しないし、そのものに魅了されることはないはずです。

これは柳宗悦さんが「用の美」を説く際に想定している「用」の捉え方にもつながっています。

ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。

物への用と心への用。
それを柳さんは、バラバラに捉えられるもの(二相)ではなく一体としてあるべきもの(不二)として捉えます。

機械的に問題解決をするのであれば、物への用のみで事足りるのです。ですが、人間にとっての問題解決とは実は事前に存在する問題をただ解決すればよいのではない。人は問題解決のために生み出された物そのものを更なる問題として認識してしまい、それそのものを評価にしてしまうのです。物心への用が不二の状態で必要となるのはまさにそのためです。

お飾り、付け足しではない本質としての装飾性

装飾なのか、問題解決なのかの二者択一ではないんですね。モノの側からみて言うから、そういう分割した物言いが可能になるのですが、使う人間の側に目を向ければ装飾だろうと問題解決の道具だろうとモノはひとつです。
そして、何よりも問題解決の視点からだけではモノのスタイルは決まらない。そこに僕が装飾と呼ぶ過剰or不足の視点が入ってはじめてモノの形はピタッと決めることが可能になるはずです。

デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである」で、僕は、

デザインとは最適解(もしくはそれを生み出す仕事)ではありません。
過剰あるいは不足が生み出す装飾性を帯びた解(もしくはそれを生み出す仕事)です。

と書きました。
目的ドリブン、問題解決という方面からのみ考えたのでは、過剰あるいは不足としてしか理解不可能な装飾性は、実は、人間という生物のためのデザインにおいては、単なるお飾りや付け足しではなく、本質的に不可欠なものではないかと思えるのです。

このあたりまで来ると、「デザインの核は装飾である」といっても、それは僕がこれまで書いてきたこととそんなに違ったことではなく、その延長線上にあるものだということもわかってもらえるのではないかと思いますが、いかが?

98パーセントぐらいはフリルの方にエネルギーを注いできている

ただ、確かに僕自身、いまだにその過剰や不足としてデザインにまといつく必然性をもったもののことを「装飾(性)」と呼んでよいかという用語の面での迷いはあります。

ただ、今回僕があらためて、この問題に取り組まなくてはいけないと自分にテーマを課し、そのテーマを考えるにあたって「装飾」という語を選んだのは、1年半以上前に読んだ原研哉さんの次のようなことばがずっと念頭にあったからです。

 デザインというのはフリルじゃないよとずっと言われています。でも人類のものづくりを冷静に観察すると、98パーセントぐらいはフリルの方にエネルギーを注いできていると思う。近代以前の、長い人間の歴史の中で見ると、やっぱり装飾こそがデザインだったと言わざるを得ない。
原研哉、阿部雅世『なぜデザインなのか。』

先のエントリーに反論してくれた方などは、僕なんかに反論する暇があったら、まずはこの原さんの言葉への反論を考えたほうがいいと思うんですよね。僕自身、その方向性を探ったのがこの2年間だったのかもしれません。それでも反論できる言葉は思いつかなかった。だから、逆にその言葉自体に向き直るしかなかったんです。

まじめな話、僕なんかにムキになって反論する元気があるなら、世の中の人にきちんとその主張を伝える努力をしていただいたほうがいいと思います。そんな努力もせずにただのブログの1エントリーに騒いでたってダメでしょ? 力を使うべきところが間違ってますよね。特定の誰かの発言への反論としてではなく、もっと定常的に「デザインとは人びとの生活の問題を解決するための秩序をつくる」ことだと積極的に発言する努力をしてください。そのほうがデザインに対する誤解をとくことにつながるはずですから。

フリルの方にエネルギーを注いでいないものがたった2パーセントしかないのに、デザインは問題解決とだけいうのは事実に反しているのですから。頭のなかの信念を主張する前に、冷静に事実を見つめ返す必要があります。「どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする」で書いたように、まず自分自身の身のまわりの事実から。

僕自身が「装飾」という問題に立ち返れたのも、実は自分自身のものを評価する眼を冷静に見つめ直したからにほかなりませんし。

デザインは豊饒の暗喩であり、人為の痕跡をうたいあげる装飾

先の原さんの発言は、阿部さんとの対談前に書かれた『デザインのデザイン』の内容について阿部さんに紹介していることからはじまっています。

その内容は、次のような文章ではじまっています。

デザインは元来、装飾ではなかったか。いわゆる様式的な装飾、すなわち「フリル」をとって合理的な精神で物の形や色を考えていくのがモダニズムの発想であるが、いわゆるシンプルというコンセプトを人類が手にしたのは人類史的には比較的最近のことである。誤解を恐れずに言えば、長い人類史のほとんどの時間の中で、デザインは豊饒の暗喩であり、人為の痕跡をうたいあげる装飾であった。

(注:この部分は元々日本語で書かれた『デザインのデザイン』にはないもので、英語で"DESIGNING DESIGN"として発表されたものの日本語版としての『デザインのデザイン』にのみ掲載されている文章です。)

僕は何もここで原さんがデザインを「人為の痕跡をうたいあげる装飾」だといっているから、「デザインの核は装飾である」と言っているわけではありません。ただし、僕が見ているものは、ここで原さんが見ているのとおなじだったりはします。

つまり、モダンデザイン以降の範疇で、人間とデザインの関係を考えてしまうのではなく、古代も含めたもっとそれ以前の時代を視野に入れて、人間とデザインの関係をみているのです。

モダンの前提を超えて

このことを自分のなかでちゃんと捉えようとしなければ、杉浦康平さんのようなデザイナーが、アジアの古い意匠を見て集めまわることをライフワークにし、その結果を『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』『文字の美・文字の力』などの書籍にまとめているかも理解できないでしょうし、それこそ古代を対象とした白川静さんの文字学や折口信夫さんの古代学から学ぶこともできないでしょう。

もちろん、今年のはじめに書いた「模様を生む力の衰え」で紹介した松岡正剛さんがいう”現在の日本は「文様の扱い方が超ヘタクソ」”ということばの意味を理解できないでしょう。

いや、それだけではない。モノとワザという観点から人間の身体活動とモノとの関係を研究する川田順造さんのような視点や、イメージング・サイエンスという人文科学の新しい領域でアナロジー思考=つなぐ技術としての人間意識を考察するバーバラ・M・スタフォード、デザインを表象の問題として、スタフォード同様にアーリーモダンの世界を読み解く高山宏さんなどの考えも視野に入れて「装飾」を考えないといけないと思っています。

シンプルがコンセプトとして定着しているモダンデザインの範疇におさまって、デザインは装飾ではない、すくなくとも装飾がデザインの核ではない、と主張することは簡単です。
でも、それは近代が前提とする合理的な精神、モダンデザインの普遍的デザイン(ユニバーサルデザイン)の発想を是としたうえでなければ、無批判に想定してよい考えではないはずです。
モダンの試みがすでに破綻してしまっているいまこの現在において、いったい、そんな狭い視野でものをみていてどうするの?と思います。

装飾性に再び目を向けるということ

モダンデザインからの学びとそれに対する反省については『デザイン思考の仕事術』の「はじめに」でも扱っていますので、興味のある方は読んでみてください。

こうした近代ヨーロッパが抱えた問題を解決する役割を果たしたのが実はモダンデザインのプロジェクトでした。バウハウスに代表されるモダンデザインのさまざまなプロジェクトが目指したのは、失われた生活秩序を新たに築きあげることでした。バウハウスに代表されるモダンデザインのプロジェクトは、新しい生活文化や新しい生き方を、具体的な新しい生活の道具や空間をデザインすることで提示したのです。

ただし、あくまであの本では、いったんはデザインを色や形などのスタイリングを考える仕事ではないことを理解いただくために、心への用よりも物への用に重きをおいた内容になりました。
だからこそ、次のテーマとしてはそこであまり語らなかった心への用を考えるためにも人間にとっては「装飾」とは何かを考えていかなくてはならないと思っています。

とはいえ、このテーマでの探究は僕にとっても、まだはじまったばかりです。「20%は未知の領域へのチャレンジに充てる」のスタンスで新テーマに挑戦しようと思ったわけです。

もちろん、これまでもそのことはずっと頭にありましたし、そういう視点で杉浦康平さんや白川静さん、折口信夫さんの本にも目を通してきました。ただ、明確にテーマを決めて、それについてしっかり考えていこうと思ったのは、まさに先日のエントリーのタイミングでした。

なので、あのエントリーの意図が正しく伝わらず、誤解を招いてしまったのは、僕の書き方にも多分に問題はあったことは認識しています。そういう誤解を解くためにも今回のエントリーを書き、あらためて「デザインの核は装飾である。」という仮説に向かう僕の意図を理解してもらえる可能性が増えれば、と思いました。

そういう方向性でいっしょに考えてみませんか?

   

関連エントリー

この記事へのコメント

  • 古琳斗

    はじめまして。

    『デザイン思考の仕事術』を拝読してから、時々、このブログを拝見しておりました。ビジネス書でありながら、広い分野の話がちりばめてあって、効率一辺倒の最近の本とは趣が違い、新鮮な感じがしました。川喜田二郎氏のモデルの引用も適切で、思わず書棚から取り出して確認してしまいました。

    ところで、デザインと装飾というキーワードでちょっぴり盛り上がって?いるようですね。私も少し、自分の思うことを書いてみたくなりました。

    デザインに占める装飾の割合は恐らく人それぞれで、何が絶対的に正しいというものでもないと思います。何度か「用の美」という言葉が何度か出てきましたが,私が思い浮かべるのは栗田勇氏が『造化のこころ』で述べられていた以下の文章です。

    日本人は、用、すなわち、必要性をみたすものをつくり出すとき、それにとどまらないで、用をどこまでも追求し、純化していって、用をつきぬけた美の結晶にまでもたらさないと気がすまなかった。どこに用の美があるかと問われれば、どこにでもある生活のもっとも単純化された祖型、アルケタイプにそれがあるということができる。


    一番わかりやすい例で言えば、着物の振り袖でしょうか。振り袖の「袖」の部分は着物のハイライトとも言える豪華な装飾ではありますが、これ(袖)がなければ「着る」という「用」を満たしません。帯にしても同じで、これがなければ着物がはだけてしまいます。美しい装飾でありながら、それが必要不可欠になっている部分に、日本の美の特徴があるように思います。西洋のネックレスやイヤリングがなくても「着る」という用は破壊されませんが、着物の袖や帯がなければ用は破壊されます。このことは、西洋の剣の美が鞘や柄の装飾にあるのに対し、日本刀の美が「刃」そのものにあるという事実にも見ることができます。

    そう考えると、日本人の美意識は、少なくとも西洋の影響をあまり受けていない時代は、表面的な装飾ではなく、その物自体の構造に向けられていたように思います。ただ、時代を下るにつれて、構造に向けられていた美意識が、徐々に表面的になって来たような所もあります。上田篤氏の『五重塔はなぜ倒れないか』という著書に、それを見ることができます。

    個人的な好みを申し上げれば、構造を的確にとらえていて、かつ、華美にならない程度の品の良い装飾がなされたものが最も美しいように感じます。

    いきなりの長文、失礼いたしました。
    2009年08月09日 21:18
  • tanahashi

    > 古琳斗さん、

    『デザイン思考の仕事術』、読んでいただいてありがとうございます。

    > デザインに占める装飾の割合は恐らく人それぞれで、何が絶対的に正しいというものでもないと思います。

    まさにそのとおりですね。
    それでいいのだと思います。

    そのうえで僕は自分の興味の向くままに、じゃあ、僕らとぜんぜん違う価値観をもっていた古代人にとって装飾とはどんな価値をもっていたのだろうと思うんですよね。
    日本がまだ日本でなく、日本人の祖先がまだ日本人でなかった古代において。
    文字をもたなかったオーラルコミュニケーションの古代において。

    その古代に生み出された、それこそ日本のものづくりの祖型、アルケタイプがある。
    そのへんを考えていくと、おもしろそうだよなーというのが、結局のところなんですよね。
    2009年08月09日 21:44
  • 古琳斗

    古琳斗です。早速のRES、ありがとうございます。

    著書を拝読してから、ちょっと中沢新一さんの『古代から来た未来人折口信夫』などを読んでいます。私の専門はソフトウェアで、趣味が投資なので、やや(かなり?)私の守備範囲から外れているのですが、たまにはこういった本を読んでみるのもいいですね。古代人に関してちゃんとした考え方というのは何も持っていないのですが、私にとって、ひとつのキーに思えるのは比喩の力でしょうか。

    最近は、世の中をめぐる情報量が増大し、それがインターネットと Google などの検索エンジンによって爆発しました。その悪影響でしょうか、物事をじっくる考えることが少なくなったように思います。最近は迷ったらすぐ「ググる(Googleで検索する)」です。

    ソフトウェアにはオブジェクト指向という考え方があるのですが、その大御所的な存在である青木淳という方が、『オブジェクト指向システム分析設計入門』という本の中で、次のように述べていました。

    理解は比喩であると言い切ってしまうと、偉い先生方から文句が来るかも知れないが、私はそう思う。他人の言うことが理解できるのは、他人の頭の中に出現した構造が、自分の頭の中に、類似した構造として編成できるからである。


    たとえば、ネーブルを知らない人に、「みかん2つとレモン1つを足して3で割ったような果物」と言えば、正確ではないにしろ、ある程度、意味が伝わります。それは聞き手に「みかん」や「レモン」に関する色、形、味のような知識があるので、それに近似する形でマッピングすることにより、理解することができます。

    オブジェクト指向という技術のキーは「比喩の力」にあるのですが、最近の技術者でこういった話をする人は、ほとんどいません。それに比べて昔の人(古代の人)は、情報が少ない時代に生きていた分、1つの事を時間をかけてじっくり考えていたのではと思います。その分、比喩的な表現を考える余裕も生まれ、今では私たちが予想できなかったような文化が生まれたのではないかという気します。

    現代は、好むと好まざるとに関わらず、大量の情報に向かい合わなければならないので、比喩とか諺が衰退してきているように思います。故に、棚橋さんのような著書を書く人も、少なくなったのではないでしょうか。
    2009年08月09日 22:46
  • tanahashi

    > 古琳斗さん、

    「比喩の力」。僕もそれがキーだと思っています。

    そのことに関して、別にエントリーをたてました。こちらを参照ください。

    ■古代人にとっての装飾
    http://gitanez.seesaa.net/article/125437942.html
    2009年08月11日 00:53
  • yimanari

    「装飾 デザイン」で検索したらこちらのページに辿り着きました。

    なにやら面白いお話をされていたので、
    コメントを残したくなり、書き込ませていただきます。



    私は、そこそこ経験のある30歳なりたてのグラフィックデザイナーです。

    簡潔に自己紹介させていただきますと、
    今は主にペラの印刷物のデザインをしていますが、
    看板やWebサイト制作にも腕があると自負しているような人間です。



    何か以前の記事で批判的なことを書かれたことに対する
    反論としてこの記事を書かれているようですが
    (その以前の記事は拝見しておりません)
    単に「言葉の選び方に行き違いがあっただけ」であって、
    大局的にはあまり筆者様と考え方は変わらないのではないかと思っております。

    なぜかと申しますと、
    「デザインとは何か?装飾とは何か?」
    との問題は、言葉の定義の問題であって、
    物事の本質に対する問いかけではないからです。


    例えば、私どもの業界では、文字を目立たせるために
    文字に影がついたような効果(ドロップシャドウ)をつけることがあります。

    僕はこれを「(文字)装飾」だと思っておりますが、
    「そんなものを装飾とは言わない」とおっしゃる方もいらっしゃることでしょう。



    僕が「デザインとは何か?装飾とは何か?」と問われたら、
    「そんなものはただの『言葉』だ」と答えることでしょう。



    ロココ調と呼ばれるデザインは「華美すぎる」と揶揄されたり、
    和のデザインは「シンプルだ」ともてはやされたりもします。

    桜の花を見られる環境でしか桜をモチーフにしたデザインは生まれないように、
    ロココも和もどちらも「TPO」があり「目的と手段」があり、
    「発注する人とデザインする人」がいます。

    是も非もなくそういった関係性があっただけで、
    それらの是非を論じ合うことを有益だと僕は思いません。

    良いか悪いかは、個人の趣味の問題であって、
    お好きになさればよろしかろうと思います。

    (著者様の弁護でもなく、他の論者様の弁護でもなく、
    ただ日頃そう思って生きているだけなのであしからず)
    2013年05月12日 10:55

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