どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする

自分で爪弾くギターの音色、自分で作った料理の味、自分で描いた絵の出来ばえ。その音、その味、その色形を、自分自身で評価できなければ、それがうまくできたかどうかは判別できません。
音や味や色形がどうも自分の思った通りのものでなければ修正するし、なぜよくないかを考えてうまくやる方法を考えるのではないでしょうか。

自分の行為の結果としてのフィードバックを受け、人は自分の行為を反省し、その反省を次の行為のために活かすことができる。それはフィードバックを正しく評価する耳、舌、眼があって、はじめて可能になるループです。

言い換えれば、それは自分が何を求めていて、何のために行為を行っているかがわからなければ、自分自身の行為さえ評価ができないということでもあります。

結果の評価ができなければ方法の評価もできない。ゆえに客観的に正しい方法を求めてしまう

自分が何を求めているかも考えずもせずに、ただ成行きのまま行為してしまう人がいます。

その場合、何を求めているかが不明瞭だから、自分の行った行為の結果を評価できません。
そうなると行為の結果だけではなく、行為そのものが正しいかが不安になってきます。ただし、その行為の正しさを支えているのは実は結果の正しさだけなので、もともと結果を評価する基準のないまま行為してしまっている以上、行為の正しさを自分の行為の内にではなく、外に求めるようになってしまいます。

そうなると、正しいやり方はどれだ?ということばかりが気になってくる。
間違いを犯すなら自分サイズで」で書いたように、味の判断が自分ではできないから、味の正しさの代わりに、やり方=レシピの正しさに依存しようとするようになります。

自分自身で行為も結果も判断する力をもたないから、正しい答え、正しいやり方を外に求めてしまう

その場合、自分の目指す味なり音なり絵なりをがあって、それを完成するための方法を手にしたいという欲求とは異なる欲求がはたらきます。
自分が求めるものが何かをイメージしようとしないまま、とにかく正しい方法を手に入れようとするので、方法の正しさを結果で判断できません。

その場合は自分でその方法を実行してみても、自分が正しく実行できているかがわからないので、ただ、ひたすら自分が正しい方法を正しく実行できたかという客観的な基準に頼るしかなくなってしまいます。

自分自身の感性で、自分の行為もその結果も判断できないという困った状態ができるのは、たぶん、そういうことなのでしょう。自分自身で行為も結果も判断する力をもたないから、正しい答え、正しいやり方を外に求めてしまうのでしょう。

自分の判断を可能にする好みというバイアスが鍛えられていない

僕が『デザイン思考の仕事術』で、自分の好みを知ることの重要性に触れているのは、まさにそのためです。

それにはまず個々人が自分の生活のなかで自分自身の好みを探っていくことが大切です。好みというのは人が物事を判断する際のバイアスです。好き嫌いが物事の理解にバイアスをかける。加重をかけます。それによって何を選択するか、何を拒むかが決まります。

好みというバイアスがあってはじめて、人は何かを選択し何かを拒むことができるようになります。

自分の行為の結果の評価もバイアスがあってはじめて可能になり、その結果を受け入れることも拒むことも可能になる。逆にいえば、好みというバイアスがなければ自分の行為の結果を評価することもできないし、自分の行為そのものが正しいか間違っているかの判断もできないのです。
つまり、それは自分自身の行動と結果のフィードバックループを回すことができないということであり、行為と結果の判断を外の客観的なマニュアルや解答に求めることができなくなってしまうということなのです。

おそらく、正しいやり方、正しい答えばかりを気にする人は、自分の好みというバイアスを鍛えることを怠っていて、自分の耳、舌、眼などを養う努力が徹底的に欠けているのだろうと感じます。

なぜ間違いを必要以上に恐れるのか

間違いを必要以上におそれるのは、自分が正しいと思うことを知らないからだろうと思います。

つまり、それは本来的には、具体的にこういう間違えをしたくないというイメージがあって間違いを恐れているというよりも、何が間違いかもわからないからすべての行為が間違ってしまうんじゃないかと思えて動けなくなってしまうのではないかと思うのです。

もちろん、誰だって怒られるのは嫌いです。
でも、自分が正しいと思ってやっているのなら、行動する際にいちいち怒られるかどうかを気にすることはないはずです。怒られるのを気にするのは、自分で正しいと思う判断ができないからなのではないでしょうか。

正しい結果を自分のなかですこしでも思い浮かべられたら、その結果を生み出すための正しそうなやり方を思いつくだろうし、それが思いつけば動くのは簡単です。
そして、それがもし間違えたとしても、自分が正しいと思っていたものと実はこっちのほうが正しいというものとのギャップとして間違いを認識できるから、たとえ間違いを怒られたとしても、そんなに萎縮しないはずです。

間違いを必要以上に恐れ、間違いを怒られることを必要以上に避けたがるのは、自分自身でこれが正しいはずだという答えややり方を見つけられず、それを相手にはっきりと説明できないからだろうと思います。

自分の行為と結果について自分自身でちゃんと説明することができないからこそ、間違いを恐れ、怒られるのは嫌い、正しい答えや正しいやり方にしがみつくことばかりを考えてしまうのではないでしょうか

どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする

結局のところ、それは間違いを許容する環境だとか、間違えても怒られない環境とかの問題ではないのです。

小中学生以下の子どもならいざ知らず、どんなに拙いものであっても自分自身で自分が正しいと思える答え、正しいと思える行動、そして、それをはっきりと説明する意思をもたないからこそ、環境のせいにしてしまうのです。

怒られるのが嫌なら、自分で自分を磨いて、自分自身が正しいと思うものを見つける眼を養い、外のマニュアルやレシピに頼っていた自分の判断を自分自身に取り返すしかないのです。

ここで「眼の力、感性の声」でも引いた、三谷龍二さんの『遠くの町と手としごと―工芸三都物語』という本のなかの一文をもう一度紹介しておきましょう。

横田さんは勉強熱心で、作ることへの努力も人一倍なのですが、それにも増して、見ること、眼を鍛えることを大切にしている人だと思いました。お宅にうかがい、箪笥や匙のコレクション、愛用のメガネのコレクションなどを見せてもらいながら、古いものをよく見て歩いていて、古いものからよく学ばれている、と感心しました。
(中略)
横田さんの作るものを見ていると、作ることと見ることは、車の両輪のような役割を果たしているなと思います。そのバランスが大切で、眼が見えている以上のものは、技術があってもかたちにはできない。ものを作る技術があったとしても、何を、どう作っていいかが、わからないからです。

行動する=作ること、評価する=見ることのバランスを自分自身から失って、外に正しいやり方や解答ばかりを求めすぎることのないように、どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにしたいですね。

P.S.
あとで気づきましたが「拙い価値観」って日本語としてヘンですね。まぁ、いいか。

 

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