糸を紡ぎ、その糸を織って布にする。その一方で糸や布を染めるための染料をつくる。
柳宗悦さんが『手仕事の日本』で、「もし歴史が後に控えていかなかったら、あの簡単に見える草履一つだって作るのに難儀するでありましょう。一枚の紙だとて、どうして作るか、途方にくれるでありましょう」と書いていますが、糸や布、そして、それらを染める染料も、長い歴史のなかで生み出された技術がなかったら「どうして作るか、途方にくれる」くらい実は複雑なものだと思うのです。
今日は、そんな紡績や染織に関わる方面から、折口信夫さんの小説・『死者の書』をみていきたいと思います。
蓮の糸
折口さんの小説・『死者の書』には、主人公である藤原南家の郎女に仕える若人たちが、池の蓮の茎を切って藕糸(はすいと)を縒る、こんなシーンが描かれています。若人等は、この頃、氏々の御館(みたち)ですることだと言って、苑の池の蓮の茎を切って来ては、藕糸(はすいと)を引く工夫に一心になっていた。(中略)茎を折つては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、糸に縒る。折口信夫『死者の書』
「苑の池の蓮の茎」から繊維を取り出し、それを縒って藕糸(はすいと)にする。とうぜん、藕糸になった時点で元の蓮の茎のおもかげはありません。当たり前といえば当たり前なのですが、蓮の茎がまったく姿形の異なる藕糸に変わるという驚きがここにはあります。
それは「2009-07-26:藍染めをする」で紹介したような青々とした蓼の葉から、まったく異なる色の藍の染料ができる驚きにも通じるものです。
この自然に存在する草木などから、まったく異なるものを生み出し、生活に役立つものをつくりだした古代の人びとの想像力に驚きます。それに比べれば、車の発明も、コンピューターの発明も大したことはないとさえ思えてしまいます。
女たちは、唯功徳の為に糸を績(つむ)いでゐる。其でも、其が幾かせ、幾たまと言ふ風に貯つて来ると、言ひ知れぬ愛着を覚えて居た。だが、其がほんとは、どんな織物になることやら、其処までは想像も出来なかつた。折口信夫『死者の書』
紡いだ糸がどんな織物になるか想像できないまま、功徳のためにひたすら糸を紡ぐ若人たち。僕はこれを読みながら想像できないことがむしろ正しいことのように思えてしまいます。あらかじめ最終形としての衣服なりを想像して、そこから逆算して糸を紡ぐより、そんな先のことはともかく、とにかく目の前の蓮の茎から糸を紡ぎ、その紡いだ糸に愛着を覚えることのほうがはるかに繊細な感受性をもって、モノそのものに接しているかのように思えるからです。
糸を績む
上記のシーンは、奈良の都にある藤原の郎女の御館でのシーンでした。このシーンは、郎女が神隠しにあった先の、二上山の麓の当麻寺の境内でも繰り返されます。ここから物語は、当麻寺に伝わる中将姫伝説と重なっていきます。参考:當麻寺 - Wikipedia
板屋の前には、俄かに、蓮の茎が乾し並べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下りて浸す。浸しては晒し、晒しては水に漬(ひ)でた幾日の後、筵の上で槌の音高く、こもごも、交々(こもごも)と叩き柔らげた。折口信夫『死者の書』
奈良の藤原南家の御館で行われていたのと同様の、蓮の茎の繊維を引き出す様子がさらに克明に描かれます。
ここには谷の澱みの水の音があり、蓮の茎を槌で叩く音があります。
した した した。
つた つた つた。
ほゝき ほゝきい。
この物語からは、たくさんの音が聞こえてくるのですが、このシーンもそれと同様に、さまざまな音が聞こえてくる。
その意味で、この物語は古代の音に関する物語なんだと思います。まさに、おとづれの物語です。
日晒しの茎を、八針に裂き、其を又、幾針にも裂く。郎女の物言はぬまなざしが、ぢつと若人たちの手もとをまもつて居る。果ては、刀自も言ひ出した。
私も、績(う)みませう。
績みに績み、又績みに績んだ。藕糸(はすいと)のまるがせが、日に日に殖えて、廬堂の中に、次第に高く積まれて行つた。折口信夫『死者の書』
はじめは若人たちの行いを怪訝な目で眺めていた年長の刀自も、とうとう自分でも藕糸(はすいと)を績む作業に参加しはじめます。糸ができるペースは加速し、物語も一気にスピードをあげます。
機を織る
そして、とうとう郎女みずから機を織る場面にはいっていきます。その前に、郎女ははるか以前に亡くなった大津皇子の魂と交感しており、それが郎女を機織りの行動に向かわせるのです。廬堂の中は、前よりは更に狭くなつて居た。郎女が、奈良の御館からとり寄せた高機(たかはた)を、設(た)てたからである。機織りに長けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女の動かして見せる筬(をさ)や梭(ひ)の扱ひ方を、姫はすぐに会得した。機に上つて日ねもす、時には終夜(よもすがら)織つて見るけれど、蓮の糸は、すぐに円(つぶ)になつたり、断(き)れたりした。其でも、倦まずにさへ織つて居れば、何時か織りあがるもの、と信じてゐる様に、脇目からは見えた。折口信夫『死者の書』
ここで折口さんが「郎女」に機を織らせているのは、『古代研究』(1.祭りの発生)所収の「水の女」という論考での次のような考えに呼応するものといえるでしょう。
おと・たちばなを言うからは、水の神女に二人以上を進めたこともあるのだ。天上の忌服殿(いむはたどの)に奉仕するわかひるめに対するおほひるめのあったことは、最高の巫女でも、手ずから神の御服を織ったことを示すのだ。折口信夫「水の女」『古代研究 1.祭りの発生』
郎女の機織りは、大津皇子の魂に向けられているのです。そして、それは巫女としてのつとめでもあるのです。
「此機を織りあげて、はやうあの素肌のお身を、掩うてあげたい。」
其ばかり考へて居る。世の中になし遂げられぬものゝあると言ふことを、あて人は知らぬのであつた。折口信夫『死者の書』
「世の中になし遂げられぬものゝあると言ふことを」知らぬ郎女は、とうとう機を織りあげる。だが、織りあげた郎女はさらなる不安におそわれます。織りあげた機を裁ち縫ふ作業が残っていたし、裁ち縫ふたうちつけが寒々しいので絵具で色をつけるという作業が残っていたからです。
こうして当麻寺に伝わる中将姫の蓮糸曼荼羅伝説の物語が語れていきます。
その物語の背後に、蓮から糸を紡ぎ、それを機に織り、さらに色つけして曼荼羅を描くという、物がさまざまに姿を変えていくための技術があることを僕はおもしろいと感じると同時に、そこにこそ、この物語の不思議さを支えるひとつの原動力をみます。
まぁ、こうした読みは、あくまで『死者の書』という複雑に絡み合った音・声の物語を読む数ある接し方のひとつでしかないと思います。また機会があれば別の読みで、この『死者の書』を紹介できればと思います。
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