今回はちょっと補足のエントリーを。
今回もそうですが、間違える云々について書くとき、間違えられる環境であればとか、間違えてもいい場合であれば、といった限定つきで、間違えながら学ぶことへの肯定の意思を示す人がいます。
間違いの粒の大きさ
でも、それは僕が考えていることの意図とはちょっと違うんです。何が違うかって、そういう人がイメージする間違いは粒がデカすぎるんです。
そんな粒の大きさで間違ったら、そりゃ、ちょっとやばい場合もあるよねって思えるような間違いの大きさを想定しているように感じます。
でも、僕が「早く多く間違えよう」という場合に想定している間違いというのは、もっと小さな単位の間違いです。いや、些細なことすぎて本来間違いとはいわないサイズのものです。
たとえば、
- 料理で塩加減の調整をする際に「どうかな?」と味見をしてもらって「もうちょっと入れてもいいんじゃない」といったやりとりをしたり
- 同僚に「ちょっとそれ取って」といわれてデスクの上のハサミに手を伸ばしたら「違う違う、糊取って」といわれたり
- KJ法で情報を単位化して書きだした際に「これ2つの事柄が混ざってるから、2つに分けたほうがいいんじゃない」といわれたり
といった、そんな些細な間違いを想定しているんです。
つまり、コミュニケーション上のちょっとした食い違いであり、その補正をイメージしています。
逆にいえば、そのレベルでの他人との些細な食い違いに気づくことができる感覚をもちあわせていない人が、実は、日常的な他人とのコミュニケーションギャップに気づかないまま、自分勝手な思い込みで物事をすすめてしまい、もっと後になって取り返しのつかない間違いを犯してしまうんだと思うのです。
レシピをみるか、味見をするか
先日、ある場で料理のレシピの話で盛り上がりました。レシピをみて料理をつくる女性と、レシピなどみないで味見をしながら味を調える女性のあいだで。レシピをみる女性がいうには、旦那さんが食べて味が不評だったとしても、「ちゃんとレシピどおりに作った」といえることもレシピをみる理由の1つなんだそうです。一方のレシピをみて作らない女性の方は味見をしながらつくれば、そんなことにはならないという言葉を呑み込んでいたのかな?と感じました。
レシピをみるというのは、昨日の言い方をすれば、有限の距離のゴールを想定して、そこに唯一の正解があるのを想定してしまうのに近い。
一方、味見をしながら味を調えるというのは、結局、正解などなくて、ただひたすら自分がおいしいと思える、よりベターな状態を探っていくということでしょう。
最後に問うか、途中で何度も問うか
レシピをみるかどうかは別にして、料理をいっしょにつくっている際に、途中で相手にも味見をしてもらっていれば、たとえできた料理の味がいまいちでも、その失敗はきっと誰のせいにもしなくて済むでしょう。料理の過程でのコミュニケーションを通じて、相手と合意をとりながらすすめているわけだから、失敗してもたがいに相手のせいにしたりということにはならないはずです。そういう過程を経ずにできあがった最終形の料理でだけ相手とコミュニケーションしようとするから、そこに齟齬が生じる可能性が生まれてしまう。おいしくなければ失敗、間違いということになってしまいます。それが作った人の間違いになるのか、そもそもレシピ自体の間違いになるかは別として。
そうではなく、まだ作っている途中で味見をしてもらえば、その時点で味がいまいちでも、それは間違いとはいわず単なる補正の対象にしかなりません。
そうやって、相手とのあいだでさんざん味見と補正を繰り返したのち、できた料理が不味かったとしても、まあしょうがいないねとなるのではないか、と思うのです。もちろん、そういうやり方であれば、大抵はそこそこの味になるほうが多いでしょう。
最後になってはじめて相手に問うか、途中で何度も問うか。
それによって間違いの粒の大きさはだいぶ違うし、その間違いの影響力もとうぜん大きく異なるのではないでしょうか。
僕が「早く多く間違えよう」というのは、最終形での取り返しのつかない間違いを犯す前に、間違いとさえいえない間違いを犯すことで、間違いのリスクを減らしていこうということなのです。
小さな食い違いを随時修正する
最終形で判断してもらうか、途中のコミュニケーションで細かな判断をあおぐか。それによって失敗、間違いのリスクの幅は大きく異なります。後者の場合、コミュニケーションの量に不足がなければ、失敗、間違いというのはほとんど起こらないでしょう。
もちろん、もう皆さん、気づいたと思いますが、これは仕事をするのでもおなじです。最終形に近い状態になってはじめて上司に確認したり、製品ができてはじめて顧客の声を聞いたり。そんなやり方では当然失敗や間違いが起こる確率は高くなるし、そこでの失敗や間違いが取り返しのつかないものになる可能性は大きくなります。
反対に、途中のコミュニケーションで、小さな食い違いを随時修正できていれば、失敗や間違いのリスクは大幅に減らせます。上司とのあいだであれば、途中で何度も報告、確認を行い、上司の判断をあおいだ上での間違いであれば、先の料理の場合とおなじで、たとえ結果が間違ったとしても、上司から怒られるということはないはずです。
もちろん、確認するときには相手の状況をみて相談しないと、タイミングが悪い、めんどくさいやつだと思われることもあるので、そのあたりの他人への配慮の感覚もしっかり持ち合わせている必要はあると思いますが。
まあ、できれば、ひとりで作業して確認よりも、『デザイン思考の仕事術』で書いているように、グループワークの仕事を増やせれば、いっしょに料理をつくるのとおなじで、作業を進めること自体がコンセンサスを作っていることにもなるんですけどね。
自分サイズで間違いを犯す
結局は、間違いが許される環境なのかどうかではなく、許される範囲で小さな間違いを犯しているか、それを通じて細かくコミュニケーションギャップを埋める調整作業ができているか?です。自分のサイズを大きく超えた環境をみるのではなく、自分でどうにかできるサイズの環境をみて、そのなかで自分がやるべきことをするのです。そうした自分の責任範囲でどうにでもなる間違いを繰り返して補正をはかるということをせずに、自分ではもうどうにもできないサイズの間違いが起こるまで、誰にも確認してもらわずにいたら、そりゃ間違いについてダメだしされるのは当たり前でしょう。
間違いを必要以上に恐れている人って、そういうサイズ感に疎いのかなと思います。
自分サイズで物事を見ずに、自分の許容量をはるかに超えたサイズを見てしまい、間違ったらどうしようとか考えてしまうのではないでしょうか。
もっと自分サイズに小分けにして、目の前の確認すべき問題からひとつひとつ具体的な自分の見解を相手にぶつけてみて、相手の考えとのギャップを測ることが必要だと思います。
小さな自分サイズで行動を起こしてみる
その意味でも昨日も書いたように、ひとつ正解があることを想定して、そこから逆算して正しいやり方を見つけようとする姿勢には、そもそも細かな自分サイズの間違いを通じて補正するという動きを邪魔してしまうものがあるのだと思います。レシピ=正しいやり方とばかり相談してしまって、真に相談すべき対象に相談しなくなってしまうんですね。
そうではなくて、もっと小さな自分自身でどうにでもやり直しがきく程度の粒の大きさで、相談すべき相手にちゃんと自分の考えであるアウトプットをみせる必要があるのです。
自分サイズでどうにでもやり直せる程度であれば、単にそれは相手に対する確認であり、間違いとさえみなされないでしょう。ただし、そうした確認でも自分にとっては相手の意見を聞けることで、自分の考え方を修正するチャンスになるはずです。
そうした小さな自分サイズで行動を起こしてみる。
そういう姿勢が大事なんじゃないかなと思います。
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この記事へのコメント
匿名希望
この「早く多く間違えよう」という記事にたどり着いたのは、自分が好きな作家さんの日記にリンクが張ってあり、そこをクリックしてやってきたからです。
自分の作家さんがタメになったというので、それならば私も見てみようかな、という気持ちでした。
そして今回の内容にある「自分で最後までもっていったものを相手に見せて、失敗する」というのが、そのまま今の私の形でした。
私は細かな間違いを他人に指摘されることをいつも恐れています。誰かに自分の失敗を見せることが「自分の無能さ」をそのまま伝えているようで、私はそんな無能な自分が大嫌いなんです。だから、最後まで細かな失敗を隠して、後で大きな後悔をするということが多々ありました。
そんな自分が嫌で嫌で仕方なく、そのときだけは「こんな自分とはもうお別れ」だと、何か固く誓っているのですが、その誓いが果たされたことは一度もありません。
私は本当に無能なのです。それでも有能であると今まで振る舞って生きてきたから、今になって無能であることをさらけ出すのが怖いのです。自分の身の回りにある、何もかもが変わってしまいそうで、そんな風になることを恐れている自分が一番卑しく醜くて。
だから、今回の「多くの失敗をする」ということは、私にとっては全く考えていなかった方法だったのです。もしかしたらこの方法で希望が見いだせるかもしれないとも思っています。
多くの人と知り合うということは、多くの知識と発想を得ることだということを、改めて感じました。この考え方と発想を知れたということだけでも、あなたとの出会いに感謝します。
今回のコメントも、思いたったら吉日ということで、コメントさせて頂きました。このコメントも未熟で間違いだらけな偏見の固まりだと思いますが、少しでも目を通してもらったのなら嬉しいです。私は感謝の思いを伝えたかったのですから。
本当にありがとうございました。これからはちょくちょく足を運ぼうと思います。もしかしたら、足繁く通うことにもなると思いますが……。それでは、また。
tanahashi
コメントありがとうございます。
あなたのコメントが他のたくさんの方に勇気をあたえてくれるものだと思い、
表示させていただきました。
僕自身、勇気をもらえました。
ありがとう。