ハレの時間(とあるワークショップの感想を兼ねて)

時計の時間ではなく、いまを生きること。
これをやればどうなるという将来のために、いまを犠牲にするのではなく、とにかくいま目の前にあるものに対峙して、それに自分の身体を使って応答すること

そうでなくてはいまは刻々と過ぎ去っていってしまいます。
いまに何の傷跡も残さないまま、時計の針だけがどんどん進んでいってしまいます。

日常のケの時間であればそれでもよいのかもしれません。

ただ、稀にしかあらわれないマレビトが、ありがたく(有り難く)あらわれたそのいまにおいて、一期一会の宴の場で体面を気にして歌い舞うことを躊躇しているのはもったいない。
宴の場のハレの時間で恥や外聞を気にして何もできずに終わったら、それこそ、日常のケの時間に持ち帰れるものが何もない状態になってしまうでしょう。

以前、「ペルソナやシナリオを身につけるためのワークショップの要望ってありますか?」というエントリーで書いた件の芸者の役を今日やってまいりました。
とある旦那様が主催された遊びの場におよばれして、未熟な芸を披露させてもらってきたのです。

参加された方の声

そのなかで感じたのが冒頭のことでした。

村には歴史がなかった

折口信夫さんは『古代研究』(1.祭りの発生)所収の「若水の話」という論考のなかで、古代の時間がなかった世界に触れています。

村には歴史がなかった。過去を考えぬ人たちが、来年・再来年を予想したはずはない。先祖の村々で、あらかじめ考えることのできる時間があるとしたら、作事はじめの初春から穫り納れに至る一年の間であった。
折口信夫「若水の話」『古代研究 1.祭りの発生』

暦の概念のない世界で、去年は今年とおなじものであり、来年もまた今年とおなじものでした。
作物の収穫が行われる1年がただ繰り返されるだけで、そこに時間の概念はなかったのです。

そのうち、それがすこし変化します。
おなじ年が毎年繰り返されるという考え方が、1つずつあいだを隔てて、おなじ状態がくると変化したのです。去年と今年はおなじではないが、今年は一昨年とおなじものだという風に。

一代置いてのよみがえり

その1つ隔てたものどうしをおなじものと見る暦の感覚が、親子、祖先の関係にうつされておもしろい考えが生まれます。

祖父と子が同じ者であり、父と孫との生活は繰り返しであるという信仰のあったことは、疑うことのできぬ事実だ。
折口信夫「若水の話」『古代研究 1.祭りの発生』

と。

つまり、子は一代置いた祖父のよみがえりであり、父は一代置いて孫となってよみがえると信じたのです。

そうした信仰のなかでの死生観はいまとはまるで異なりました。
死はいまのような個体の死ではなく、一代置いた次の生のための一時的な休息だと考えられたのです。

母体によらぬ誕生、常世からくる水

そのため誕生もまたよみがえりであり、この論考のタイトルになっている「若水」もようするに誕生=よみがえりの際にもちいられた水を指していたと折口さんは考えるのです。つまり、かつ死んだ父が若返って赤子としてよみがえったのだ、と。

その誕生の儀式に祭りのひとつの原型があります。
いっぱんの人びとのよみがえり=誕生の儀式に若水がもちいられる以前は、若水は神=王のよみがえりのみに用いられたものでした。

蝶がいったん蛹となった(=仮死の状態になった)のち、蝶としてそれまでにない魅力をもって生まれ出るように、神=王はいったん殻のなかに籠ったのちに再び生まれ出ることで、常人のもたない力をもつにいたると考えられたのです。
仮死の状態の殻とは、桃太郎の桃であり、かぐや姫の竹であり、天孫降臨の時に高皇産霊(たかみむすひ)尊が瓊瓊杵(ににぎ)尊を覆って降ろした真床追衾(まとこおうふすま)です。

この殻から再び生まれ出るという、母体によらぬ誕生の儀式が祭りのひとつの原型としてある。若水はそこで用いられる水であり、仮死の世界である常世からくる水でした。

それは時間の概念が未熟で、時間を過去から現在を経て未来へと連なる連続的なものとして捉えず、1つの隔たりをもっておなじものが繰り返し生まれ出るという、植物や蝶などの昆虫が自然の一年という時間のなかで繰り返すのとおなじように自分たち人間の時間をもとらえていた人びとの信仰にあった考えだったのでしょう。

発想が殻を破って生まれ出る

祭りの時間、マレビトを迎えるハレの時間というのは、本来、そうした時間のない世界に属したものです。そのハレの場におけるいまは、過去や未来と連続的にあるいまではありません。

『デザイン思考の仕事術』の5章でもおなじく折口信夫さんを引きつつ、ワークショップという遊びの場が、そうした神=マレビトを招き、神とともに歌(情報)を連歌のようにつらね、その歌にあわせて自らの身体を舞わせることだといったことを書いています。

この饗応の場で御馳走とともに、マレビトをもてなすものとして用意されたのが、舞であり歌でした。折口さんの民俗学の影響もうけている漢字学者の白川静さんは「遊字論」のなかで、「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由とゆたかな創造の世界である」と書いています。白川さんが指摘するのは主に中国での話ですが、日本においても遊びは神遊びであり、祭りは神とともに人が遊ぶ場でした。

その遊びの場の時間はまさに、過去~現在~未来と連なるケの時間ではなく、まさにマレビトが常世からよみがえる場の一期一会を大切にしなくてはいけない時間です。

そこではすべての作業は、それをやればどうなるという先を考えて行うものというより、目の前に提示された情報を何とつなげるという一点に集中して行う作業です。
正しいやり方を求めて目の前の情報から受ける自分の感覚を信じられなかったり、何か正解があるものと想定して間違いをおそれて身体が動かなくなってしまったり、そうした原因と結果のような機械的因果関係を想定していると、神=発想は降りてきません。

間違っちゃいけないとか、正しいやり方を知りたいとか、体面を整えることばかり考えていないで、感じたままのことを表現してみればよいのです。経験がないからなんていうのは、実はただの言い訳でしかないのです。むしろ、感じたままを表現することを阻害しているのは、過去の経験だったりするのですから。

ワークショップの成否の岐路

なんとなくこういう書き方をすると、喩えでものを言っているのだと思う方もいらっしゃると思いますが、こう書いている僕にはこれが単なる喩えだというつもりはなくて、まさに殻のなかに埋もれた仮死状態の情報から発想が生まれ出る際の人と情報(群)の相互のはたらきをほとんど直喩的に示しているつもりです。

それにはとにかく祭りの場での恥や外聞は捨てて、とにかく目の前の情報におどらされて、直観的に歌をうたってみないといけません。間違いなどといったその場であり得ないものを信じるのではなく、直観を命ずるがまま手を動かして、歌を綴ってみないといけない。自意識などは捨てて、とにかく目の前の状況に身をゆだねるのです。

そうすることではじめて神の声である、おなじチームの人の意見が耳に聞こえてくる(それこそ夕占の世界です。夕占については「どこを見て、何を聞いて仕事をしてるか?」を参照)。その声に耳を澄ませるためにも、まず自分で感じたことをアウトプットしなくてはなりません。

そこに祭りであるワークショップが成功するか、しないかの岐路があるのです。

と、なんとなく今日一日で僕自身が学ばせていただいた感想を書かせてもらいました。

参加された皆さん、一日お疲れさまでした。
人によっていろんな学びがあったと思いますが、無意味な学びを持ち帰った方はそんなにいなかったんではないかと思い、ほっとしています。
また、何か機会があればお会いできる日を楽しみにしております。

 

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