デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである

あれこれ逡巡してきましたが、結局、なんだかんだ言ったところで、

デザインの核となるものは
装飾である

と思うし、
そうであるがゆえに、デザインをする主体である、

デザインする人に最も求められるもの
美的センスである

と思うに至りました。

まあ、ある意味では遠回りをしながらも一般的に「デザイン」ということばを聞いてイメージするものに近いところに行き着くことができたというわけです(たぶん、「装飾」とか「美的センス」ということばの使い方は一般とはズレがあると思いますが)。

良いデザインとは、美的センスに優れた装飾性をかたちにした仕事であり、その結果としての人工物である

というわけで、自分の美的センスに自信がないからといって、そこから逃げて、あれこれ立派な理屈でその場をやり過ごそうとしても、結局は自身の美的センスに向き合うことをナシで済ませるデザインというのはありえないと考えます。

なので、たとえ、それがグランドデザインといわれるようなきわめて抽象的なものであったとしても、それはデザインであるがゆえに装飾的で美的センスが感じられるものであるべきだろう、と。
もちろん、それは単に表層的なレベルだけの美的装飾性のみをそなえていればよいという意味ではありませんが。

自分自身の手にその技術がそなわっているかどうかは問わないまでも、人間にとって有意な装飾性を有した人工物を美的センスをもってつくりだすためのディレクションすらできない人がやった仕事であれば、やはりそれは良いデザインの仕事とはいえないのだろうな、と。

良いデザインとは、美的センスに優れた装飾性をかたちにした仕事であり、その結果としての人工物であると考えてよいだろうと思います。

最適解ではなく、過剰や不足を含んだ解を

もちろん、それは美しさを追い求めることを優先してデザインをするというのとは違うと思います。なぜなら美しさはそれ自体を追い求めて生み出せるものではないと思うから。

デザインとは最適解(もしくはそれを生み出す仕事)ではありません。
過剰あるいは不足が生み出す装飾性を帯びた解(もしくはそれを生み出す仕事)です。


それゆえ、真面目すぎる人にデザインの仕事は向いていないのかもしれません。
ジャック・ラカン真面目(「真面目」ではなく「真剣」でした。思い違いでしたが意味としてはそんなに変わらないでしょう)の反対は遊びではなく、現実だといっていますが、まさに真面目に頭でっかちに最適解を求めようとする人よりは、現実の豊饒さに触れる繊細で大胆な感性をもって、その力のあまりの偉大さになかば揉まれながら説明を超えた解を生み出せてしまう人がデザインには向いているのだろうと思います。

すくなくとも2009年8月1日現在では、そう考えるようになりました。
ひとつ前の「眼の力、感性の声」を書いてみて、そうはっきり言ってもよいなという気になりました。



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この記事へのコメント

  • bunzo78

    「デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである」に異議があります。装飾はデザインという行為の一手段に過ぎません。美的センスもデザインする人間にとって十分条件ではありません。デザインとは、美的「秩序」を駆使して「問題解決」を図る行為です。
    どんなに装飾が美麗でも、クライアントやユーザーにとっての問題を解決できていなければ佳いデザインとはいえません。MoMAに永久収蔵されるリチャード・サッパーのTizioや川崎和男のCARNA、それらのデザインプロセスを調べていただくと、デザインの本質は装飾でないことを理解いただけると思います。
    2009年08月03日 00:40
  • tanahashi

    > bunzo78さん、

    よくわかってらっしゃいますね。
    僕も著書『デザイン思考の仕事術』(http://www.amazon.co.jp/dp/4534045727)で、

    ・デザインは生活に秩序を提案し実現するものです。物に意味を与える仕事です。
    ・デザインとは、人間自身の生活、生き方、そして、生命としてのあり方を提案する仕事で
    す。
    ・暮らしの道具をつくること、仕事の計画を立てること、企業が利益をあげるために組織を編成すること。そうした人が何かをよりよく成し遂げるための人工物を考え、生み出す活動すべてがデザインです。

    などと書いていますので、よかったらお読みください。

    そうした著書を書いた上での上記発言です。
    問題解決も、秩序の構築も、デザインの必要条件だと僕も考えていますし、そうした要素を満たしていないデザインはよいデザインとはいえないと思っています。

    ただし、そのうえで、よいデザインであるための必要十分条件は、装飾性を有していることだと思いますし、その装飾性を美的センスを活かして構築できることがデザインする人に求められる必要十分条件だと考えます。

    つまり、僕は人間が求める問題解決にも秩序にも、美的満足を刺激する装飾性が不可欠だと考えているのです。
    そして、その装飾性とは過剰であり不足ではないかと思っています。

    人間と装飾性の関係を考えてみるとよいですよ。
    2009年08月03日 01:39
  • ほいほい

    はじめまして。読む専門でしたがコメントしたくなったのでさせて頂きます。

    bunzo78さんの意見、最もだと思います。
    ただ装飾性というのを言葉通り受け止めすぎているのではないかなと感じました。
    おそらく、というかtanahashiさんはそういう表面的な装飾性だけを言っているのではないんじゃないかなぁ、と。
    僕自身は「装飾性」を「デザインの完成度」という解釈をしたんですが、ちょっと違うんですかね?

    どんなにデザインの完成度が高くてもー…って言いかえると矛盾を感じたので。

    「どんなに料理が美味しくても、値段が高ければユーザーは食べに来ない」とも言えちゃうと思うんですが、
    何も考えずに美味しい料理作っているわけじゃあないですし…
    クライアントの意図やユーザーのターゲット層は、それをデザインする以前に当然決定されていますよね?
    喜んで高級料理を食べに来てくれるユーザーもいれば、比較的安価でそこそこうまい料理を食べるユーザーもいますし
    「誰に、どういった生活をしている人達に対して」を決めないと問題解決の装飾しようがないのでは?

    bunzo78さんを否定しているわけではなく、想っているところはtanahashiさんを同じなのではないかなと感じたので書き込んでしまいました。

    横槍ですみません。

    tanahashiさんの本、少しずつですが読ませて頂いています。
    2009年08月03日 16:09
  • tanahashi

    >ほいほいさん、

    コメントありがとうございます。
    僕がどういう意味で「装飾性」という語を使っているかは、おいおい別のエントリーで書かせてもらおうと思っています(とても、ここでは書ききれないので)。

    bunzo78さんのコメントはもっともなんです。
    だって、それがこれまで僕自身がずっと、このブログや本で言い続けてきたことですからね。

    その上で僕は「装飾性」を考えないといけないって思っちゃったんですよ。
    いや、ずっと頭の片隅にあったんですけど、いままではとりあえず保留にしておいた。
    その前に「関係性」だの「問題解決」だの「秩序」だのをやっつけようと思った。
    それがいちお『デザイン思考の~』でなんとかいちお片付けられたので、次のステップとして保留にした「装飾性」について考えてみないといけないなと思ったんです。

    これ、実は原研哉さんが『なぜデザインなのか。』で「デザインってなんだかんだいって装飾なんじゃないか」といったような発言しているのがずっと頭の片隅にあったからなんですよね。
    2009年08月03日 17:09

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