眼の力について。
目利きがいかにものづくりを助けるかということについて。
そして、皆さんはものに触れた際の自分の感性の声が耳に届いているかということについて。
まず福井で建具屋さんをしていた横田さんという方の仕事について、著者の三谷龍二さんはこんな感想を述べています。
横田さんは勉強熱心で、作ることへの努力も人一倍なのですが、それにも増して、見ること、眼を鍛えることを大切にしている人だと思いました。お宅にうかがい、箪笥や匙のコレクション、愛用のメガネのコレクションなどを見せてもらいながら、古いものをよく見て歩いていて、古いものからよく学ばれている、と感心しました。
さて、ものを作っている皆さん、普段の暮らしでちゃんとものを見てますかー?
「古いものをよく見て歩いていて、古いものからよく学ばれている」。そんな風にものに接することができているでしょうか。
ちゃんと動くことや機能性だけでなく、見た目の美しさ、触れたときの手触り、暑い夏の炎天下での肌触り、手に持ったときの重み、ぽつんと部屋に置かれてあるときの佇まい、何年も使うなかでの経年変化が見せる表情の移り変わり、などなど。
さまざまなものが見せる表情と自分のなかで好みが動くことの関係性にちゃんと敏感に反応できているでしょうか。
眼が見えている以上のものは、技術があってもかたちにはできない
自分の好みを知り、さらには他人の好みについても考えることの重要性については、『デザイン思考の仕事術』でも触れています。「どういう場でどういう作法を行った際に、自分の好みがどう働くかを知っておく」ことが大事だ、と。そして、「好みというものは規定するものではなく、勝手に働くもの」であり、そうであるがゆえに「場や作法と好みの組み合わせがどうなっているかを知るために、自分の世界の外の世界を旅する」ことが必要である、と。
ものづくりをする人は、ただ、ぼんやりと日々を過ごしているなかでの好みを知っているというだけではぜんぜん足りなくて、積極的にものと好みを探るという意味での眼の力を養っていくことが大事なんだと思います。
それは手を動かして作るのとおなじくらい大切なことだと思う。
三谷さんはこう書いています。
横田さんの作るものを見ていると、作ることと見ることは、車の両輪のような役割を果たしているなと思います。そのバランスが大切で、眼が見えている以上のものは、技術があってもかたちにはできない。ものを作る技術があったとしても、何を、どう作っていいかが、わからないからです。
「作ることと見ることは、車の両輪」。まさにそのとおりだと思うんです。
眼で見ることのできないものは、かたちにできない。作る技術はあっても、あるべきかたちをイメージする力がなければ、そのかたちを作ることはできないからです。
眼の力というのは、そのあるべき姿をイメージするためのボキャブラリだと思うんです。
技術的につくることが可能なボキャブラリ、引き出しとはちょっと違って、どんな語彙をどんな風な表現で組み合わせていくと、どんな風に人の好みが動くのかということが想像できるような、そんなボキャブラリ、引き出しです。
とりあえず、それを「ものの好みの関するボキャブラリ」とでも言っておきましょうか。
手の暴走、贅の誘惑にブレーキをかけるのが、眼の力
その「ものの好みに関するボキャブラリ」がたくさんもっているかどうかで、「何を、どう作っていいか」がわかる確率は増えます。逆にそれがないと技術の暴走がはじまる。過剰なスペック追求がはじまったりします。
芝居の世界で「役者馬鹿」という言い方がありますが、その意味は肉体を使う役者は、からだを使って動くこと自体が楽しいから、放っておくと抑制が利かず、演劇や人間のことを理解することなく、ただ動く快楽に溺れてしまう、というものです。そのことを馬鹿といっているのですが、職人の手もまた同じように技術的に難しいところ、稀少な銘木を扱う世界に入っていって、そちらが楽しくなって、暮らしのことや使う人のことがいつの間にかおざなりにされてしまうことがよくあります。そうした手の暴走、贅の誘惑にブレーキをかけるのが、眼の力なのだと思うのです。
技術の暴走、過剰なスペック追求に待った!をかけることができるのは、「ものの好みの関するボキャブラリ」である眼の力です。技術の暴走や過剰なスペック追求がはじまるのは結局「何を、どう作っていいか」が見えていない状態だからこそ起こるのです。
どうでもいいものを無関心な状態で使うのをやめる
逆に、何を作らなければいけないかがわかれば、どう作るかは自然と選択肢の幅は決まってくるはずです。そうすれば技術が極端に暴走することはないし、過剰なスペックを追いかけはじめることも少なくなるはずです。それにはたくさんのものを見て、さらにそのさまざまなものが人の感情をどう動かし、暮らしのなかの行動にどう影響するのかということを知っておく必要がある。眼の力を鍛えておく必要があると思います。
日々の生活でどうでもいいものを無関心な状態で使うのではなく、自分が気になるものを積極的に使いながら、そのものの良さとは何かを考えていくのです。それも特定のジャンルのものにこだわることなく、できるだけ広いジャンルのものに触れるようにすることが必要なんだろうなと感じます。
何が人を気持ちよくさせるのか、何が人を幸せな気持ちにさせるのか。
そういう意味でのものの良さを知らなければ、ちゃんとしたものづくりにはならないのではないでしょうか。
自分の感性の声が聞こえなくなっていませんか?
そして、みんながものの良さを知る感性をもっていないと、良いものをつくる良い職人がどんどん育たなくなるし、どんどんいなくなっていくのではないのかな?その意味では、眼の力っていうのは、ものづくりをする人だけの問題じゃないとも思うんですよね。ひとりひとりが自分の生活のなかで、自分とものとの関係にゆっくりと眼を向ける必要があると思う。
そうではなく、他人が良いと思っているかどうかを気にして、他人も評価していないと自身をもって自分で使うことができなかったり、そういうマニュアル志向で生きていると、自分の感性はどんどん失われていくはずです。
自分の感性の声が聞こえなくなって、客観的な評価がなければ何も判断できなくなっていく。自分の思考や行動と内なる感性のあいだがどんどん離れていってしまうんじゃないかな。
それって危険だと思いません?
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