2009-07-25:日本民家園とル・クルーゼ

先週、登呂遺跡で弥生時代の民家をみてきたのに続いて、今日は川崎市の生田緑地内にある日本民家園に行ってきました。
えっ、ここが川崎市?と思えるほどの異空間で、遠くまで遠足にきた気分になって面白かったです。



日本民家園が、先週の登呂遺跡と大きく違うところは、そこにある民家がすべて実際に人が住んでいた古民家を方々から移築して残している点。登呂遺跡のような復元ではなく本物。

  • 国指定重要文化財7件
  • 国指定重要有形民俗文化財1件
  • 県指定重要文化財10件
  • 市指定歴史記念物7件

といった堂々のラインナップで、東日本の古民家をはじめ、水車小屋や歌舞伎小屋などの建物が立ち並んでいて圧巻でした。



日本民家園
http://www.city.kawasaki.jp/71/71tama/home/ikutaryokuti/shisetsu/index.htm#MAP01

家の大きさと土間

今日、民家園にいって感じたことは何より、すべての民家が非常に大きかったことです。いったい、何人が暮らしていたんだろうと感じる家が多かった。

古い民家の大きさについては、宮本常一さんが『日本人の住まい―生きる場のかたちとその変遷』という本で、こんなことを書いています。

旧家の建物が大きく、しかも広い土間をもっているのはひとり能登だけではない。広く全国に分布しているといってもよいのであるが、とくにその現象は東日本においてつよいといっていい。東日本の方がまず民家が大きいものが多いのである。
寒いところでは家の中での作業が多くなることが、家を大きくしたものと考えられる。

日本民家園にあるのも、東北、関東、甲信越までの東日本の民家ですから、上記の宮本さんのことばに該当するのかもしれません。

実際、こんな感じで土間の広い民家が多かったです。



ただ、はたらく場としての土間は大きい家もあれば、比較的狭い土間しかもたない家もありました。
逆に、山梨県から移築された古民家などは、家のなかのほとんどが土間で、畳の間どころか、板の間さえごくわずかで、居間や客間に相当する部分には土間の上に直接ワラで編んだゴザが敷かれていました。



ところが明治の初め頃までは竪穴式になっていなくても、土間にもみがらやワラを敷き、その上にムシロなどを敷いて暮らしいた家は多かったのです。
新潟など六割までは土間住まいの家であったといいますし、長野県の乗鞍岳のふもとで調べたところでは、明治五年頃までは村の名主や重立ち百姓の家を除いてはすべて土間住まいであったということです。

確かに、先週行った登呂遺跡の竪穴式の住居は土間に囲炉裏を切ったものでしたが、それが明治期まで続いたというのは意外と知られていないことですよね。

馬屋、さまざまな屋根

もうひとつ宮本さんは、東日本の家が大きくなった理由として、次のような点をあげています。

このように大きい家へ住んだのは、屋内での作業が多かったためでもあるが、いま一つはこの地方では馬を三、四頭ずつ飼ったためである。土間の三分の一ほどは厩になっていた。

実際、今日みたなかでも東北から移築された民家のほとんどが土間の部分に厩=馬屋をもっていました。



宮本さんは西日本の船に対して、東日本の馬という文化の対置を『日本文化の形成』で展開されていますが、まさに馬が家にいるのが当たり前という東日本の暮らしのかたちが、家のかたちとして目に見えるようになっていました。

もうひとつ屋根のかたちも、切妻型や寄棟型、それから最初の写真の白川郷の民家のような合掌造りなど、いろんな形がありました。先の土間住まいの山梨の民家などは風が強い地域であるために軒が僕の身長より低い位置まで垂れ下がっていて独特なかたちをしていました。

あとはこんな風に2つの民家がつながったような形態の民家もいくつかありました。



お得な年間パスポートを購入したので、また別の機会にいってみようか、と。

今日の夕食

さて、今日の夕食は夏野菜のカレーとポテトサラダ。



ル・クルーゼの鍋(ココット・ロンドの22cmのもの)を買ったので、さっそく使ってみたんです。



かぼちゃ、ズッキーニ、なす、パプリカ、オクラを入れてみました。
おいしかったです。

 

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