日本における生成の概念と「型と形」

大量生産の複製品でもなく、かといって、手描きの絵のようにこの世で唯一の作品でもない、手作業による複製品である、芹沢銈介さんの型絵染(or 型染)作品をみて、僕はこの文章のことを思い出していました。

グノーシス派のとくにエジプトの人々は、物質に対して鋭敏な感覚を持ち、物質の内部に潜む諸力の混淆をよく把握していた。それに対し、近代人は物質を形で捉える。近代人にとって物質とは第一に物体の問題であって、近代人は物体の外形を視覚で捉え、それを理性で処理していく。分類したり比較しながら、より大きな物体の生産に利用していく。近代人は、それゆえ、物体相互の底に流れる物質の内的諸力に対しては鈍感だ。

物質を外形で視覚的に捉える近代人と、形を超えて存在する物質内部の諸力に眼を向けるグノーシス派のエジプト人という対比。

僕は、ここに母型としての型と個別の作品としての形の関係性のうちにある作品としての型絵染(or 型染)の作品制作にこだわった芹沢銈介さんの感性との関連性を感じたのです。
そして、それはさまざまな芸能や武術において、型というものを重視してきた日本人の感性との関連性でもあるだろうと思ったのです。

バタイユ「低い唯物論とグノーシス」

フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユは第一次大戦後の時期に、シュールレアリスムの芸術家や、考古学、文化人類学の研究者の文章を掲載した学術雑誌『ドキュマン』の編集・発行を行っていましたが、その『ドキュマン』の1930年の1号に、バタイユは「低い唯物論とグノーシス」と題した論考を掲載しています。

バタイユにとって、禁止と侵犯を対をなす人間的概念でしたが、キリスト教はそのうちの侵犯を否定してしまいます。聖性を侵犯するが故に聖なる存在として考えられていた悪魔を、聖なるものから排除してしまうのです。

すべてを考え合わせてみると、グノーシス派は何よりもまず深淵への不吉な愛着を、卑猥で無法のアルコントたちや太陽的なロバの頭(その滑稽で絶望的ないななきは権力を握った観念論に対する恥知らずな反逆の合図であるかのようだ)への醜悪な好みを、明かしていると思わずにはいられない。性的放縦のグノーシス派の宗派の存在、およびいくつかの性的な儀式の存在は、低劣さへのこの漠然とした加担を立証している。何にも還元されえない低劣さ、みだらこの上ない敬神の源になっていた低劣さへの加担である。黒魔術は、今日までこの伝統を継承してきた。
ジョルジュ・バタイユ「低い唯物論とグノーシス」

バタイユがこの論考でグノーシス派のなかにみたのは、キリスト教が排除してしまった聖なるものに接近する方法としての侵犯をしっかりとその儀式においてしっかりと維持しているという点でした。グノーシス派の人々は、物をみるのに、禁止によって成形された人間にとって害のない安全な物のイメージ、外形だけをみるだけでなく、理性による禁止の結果として二重の意味で成形(外形的にも、意味論的にも)された物質そのものが元来もっている諸力の混淆をみたのです。

バタイユはそれを「低劣さへの加担」といっていますが、それは通常、人間が禁止によって排除したものへの加担であり、禁止に対する侵犯という意味で、人間世界を超えた聖なるものに接近する手段だったのです。

日本における聖/賤あるいは此岸/彼岸

僕はこの禁止と侵犯の関係が日本においては(あるいは東アジアや東南アジアなどの多神教の地域では)、ヨーロッパとは異なるあり方としてあったのではないかと思います。

網野善彦さんが歴史的な視点で考察する中世における変化をみると、逆にそれ以前の日本では、禁止と侵犯あるいは聖と賤の関係がゆるやかに重なり合うものとしてあったのではないかと思うのです。

鎌倉期までは「公庭」に所属するものとして、神仏に仕える女性として、天皇家・貴族との婚姻も普通のことであった遊女は、南北朝期以降、社会的な賤視の下にさらされはじめる。おおらかで、ときにあからさまな「性」を否定、抑圧する空気の中で、セックスそのものを職能とすることを賤業と見る見方が少なくとも支配者層には支配的になり、遊女の「屋」の集まる洛中の辻子は「地獄辻子」「加世辻子」とよばれるようになってくる。遊女もまた、ここに聖から賤に転落したのである。

聖と性はおそらく生においてつながっていたのでしょう。
それは折口信夫さんのマレビト論などを重ね合わせると、よけいにそう思えてきます。

日本人は、常世人は、海の彼方の他界から来る、と考へてゐました。初めは、初春に来るものと信じられてゐたのが、後は度々来るものと考へる様になりました。春祭りと刈上げ祭りは、前夜から翌朝まで引き続いて行はれたものでした。其中間に、今一つあつたのが冬祭りです。ふゆまつりは鎮魂式であります。あき・ふゆ・はるが暦法の上の秋・冬・春に宛てられるやうになると、其祭りも分れて行はれる。其祭りの度毎に、常世人が来臨して、禊ぎや鎮魂を行うて行く。かうなると又、臨時の祭りが、限りなく殖えて来ました。
折口信夫「翁の発生」『日本芸能史六講』

マレビトとしての常世人が海の彼方からやってくる。それを迎える儀式が祭りでした。

常世人の住む常世の国は、海の彼方にある祖先の国であると同時に、死者の国でもありました。その常世から境界を越えてマレビトは来て、それを迎える。それがハレとしての祭りでした。

日本の禁止と侵犯は、そのようにゆるやかにハレとケとしてつながった状態であったのではないかと思うのです。

型と形、再び

そのような文化の延長線上に、日本における型と形の関係を考えるべきではないかと思うのです。

型と形の関係については、以前にも「型と形」というエントリーを書きましたが、型という母型は日本人の感覚ではマレビトがそこからやってくる常世の国のようなものであり、それを個々の形として生成する活動はまさにマレビトを迎える祭りのようなものであるのではないかと考えるのです。

それゆえ、かつての日本においては、あらゆる生成はハレの活動であり、かつ聖と賤の交わる場として考えられていたのだろうと思うのです。そこにはグノーシス派のエジプト人がみたのと同じように、物質がそもそももっている諸力の蠢きを敏感に感じ取っていた人びとの感性があったのだと思うのです。それがたとえ人間的な制作活動であっても、それは生成であるかぎりにおいて自然の芽吹きのような生成と変わらないと、かつての日本人は考えていたようなフシがあります。

そこでは事物の外形以上に、物質そのもののなかで蠢く生と死の境にある諸力が問題になる。しかも形のオリジナルである型は常世の側からもたらされるのであって、自分たちの制作の対象にそもそもなっていません。師から型を受け継ぎ、その型を身につけることで自分の形を生み出していく、伝統芸能の受け継がれ方は、視覚的な外形以上にそれを生成する諸力に眼を向けることを重視する傾向があったからではないか。そんな気がするのです。

ところが、そんな型と形の関係がいまやすっかり失われている。
その感性の変容はいったいなんなんだろうと思うのです。いや、変容であればよいのですが、単にそうした感性を失っただけで、代わりに新しい感性を得たということでもない気がするのです。
感性を失っても、一時的には西洋から輸入したモダニズムの思考法でここまでやってこれたのでしょうけど、そうはいっても思考法は感性の代わりにはならない。

どうも、そのあたりに日本のいまの閉塞感の要因はあるのではないかという気がしてならないのです。

静岡まで足をのばして芹沢銈介さんの型絵染作品を見にいってみて、そんなことを思ったのです。

  

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