でも、実はもうひとつ買ったものがある。それがこの型絵染の団扇。


どうですか? 涼しげでよいでしょう。
型絵染というのは、染色作家であった芹沢銈介さんがはじめた技法で、通常布を用いる型染めの代わりに紙を型紙で染めたものを指します。ちなみに右の写真にみえている藍の座布団が通常の型染めですね。
他にもいろんな絵柄のものがありましたが、この朝顔などが描かれたものに惹かれました。この絵柄は残り1つだけだったので買えてラッキーでした。
クーラーの利いた部屋で熱いお茶を飲みながらすごすのも快適なものですが、たまにはクーラーを消して団扇で涼んでみたほうが夏らしくてよいなと思っています。
あと欲しいのは風鈴ですね。これも探していますが、なかなかコレといったものに出会えずにいます。引き続き捜査中。実は簾もほしかったり。
なんでもないガラスのコップ。
今日は、木工デザイナーの三谷龍二さんが、自身がこれまで住んだ福井、京都、松本の手しごとの現場を訪ねあるいて綴った『遠くの町と手としごと―工芸三都物語』そのなかにこんな一節がありました。
なんでもないガラスのコップ。そのかたちは少し昔によく作られたかたちだが、薄くすっきりして、きれいなかたちのものです。ものを作る人もまた自分でものを使う人でもあるわけだけれど、そのなんでもないコップが、僕はいろいろ技巧を凝らしたコップよりずっときれいで一番使いたいコップのかたちだと思うのです。でも、何の変哲もないそんなかたちだと、誰も僕が作ったと思わないだろうし、誰が作っても変わらないものだろう。昔の職人とおなじことをしているだけだから、自分でなくてもできるものかもしれません。でも、使うならなんのけれん味もないこのようなコップが一番好きだし、きれいだと思う。
ここに描かれているのは、モノの作り手のなかでの、作る自分と使う自分の葛藤です。こうした葛藤がものづくりをする人には必要不可欠なのではないでしょうか。
作る自分と使う自分の葛藤―、いうなれば、それは手と眼の葛藤かもしれません。
ものを作るというのは、なにか自分らしさを加えることだと思ってきたし、その誘惑にも動かされるけれど、でもほんとに自分が使いたいものを作ることが、ものを作ることの誠実だとも思う。だから踏ん張って普通のコップを作ること。そう決断する眼は、ものを作る上で大切だと思います。なんでもないものをいいという勇気は、自分の眼を信じるところからしか生まれないのでしょう。
「踏ん張って普通のコップを作る」。まさに以前に紹介したインテリアデザイナーである内田繁さんの著書『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
普通 V.S. 普遍
普通のデザインに対して、内田さんが批判的に対置しているのが、普遍的デザインとしてのユニヴァーサル・デザインでした。今日のユニヴァーサル・デザインは、誰でもどこでも使えるものをよしとしますが、誰でもどこでも使えるようなものは、ものと人間の交流を薄くします。使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるなら人は使いこなします。ガラスは落とすと割れるからこそ、人はていねいにあつかいます。そして、人はものに愛着を感じることになります。自転車は練習しなければ乗れません。しかしそれを達成したときの喜びは大きいものです。そうした経験こそ、人とものとの触れ合いになるのです。
普通と普遍は違います。普遍はあるものを一定の形式に定義して固定しますが、普通はもっと人びとのなかで揺れ動くものです。生活が変われば普通も変わる。それでよしとするのが普通のデザインであり、無理やり形にはめこんでこれがスタンダードだとするユニヴァーサル・デザインとはまったく方向性を異にします。
これは「点の思考、線の思考」で書いた、物事を静止した点として捉える点の思考と、物事を動きのなかで捉える線の思考との対置にも通じますね。
人間という常に変化する生物を相手にしているのですから、線の思考による普通のデザインこそを心掛けたほうがよいのでは、と思います。
今日の夕食
さて、今日の夕食。土用の丑の日ということで、鰻を食べました。
それにしても三谷さんの『遠くの町と手としごと―工芸三都物語』
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この記事へのコメント
鈴木均治
tanahashi
ただ、誰が作者かということは、文中には書いていませんが…。