仕事術とは生きる術(すべ)のこと

仕事術―。
このことばを耳にすると、どうしてもビジネスの場での仕事ばかりを想起してしまう人が多いのではないかと思います。
しかも、仕事術ということばを、仕事を効率よく終わらせたり、ラクに金を儲けたり、企業組織のなかでつつがなく生きていくことを目的としたものだとイメージしてしまうことが多いのではないでしょうか。



生きることを支えているものに、仕事、家庭、コミュニティの3つがあるそうです。定年を迎えたサラリーマンが仕事がなくなった途端に亡くなってしまうということがあるといいます。家庭やコミュニティを犠牲にして仕事をしてきた結果、その唯一の生きる支えであったものを失い、命まで失ってしまうということなのでしょうか?

でも、企業組織ではたらくことだけが仕事なのでしょうか。家庭内でも、コミュニティ内でも仕事はあるのではないでしょうか。掃除や洗濯、料理などの仕事はもちろんこと、地域のコミュニティのためのボランティア活動、さまざまな話しあいなども本来は仕事に含まれてよいはずです。

それなのに、企業組織でサラリーを稼ぐための狭義の仕事だけを、自分のなかで仕事と定義してしまったがために、定年とともにその仕事のみならず、すべての生きる支えを失ってしまうのではないでしょうか。

企業、家庭、コミュニティ

企業組織での仕事、家庭、コミュニティ。それらはその仕事の結果を受ける対象が異なるだけではないでしょうか。

企業組織での仕事は契約や販売を通じて、広くさまざまな相手に開かれています。最終的には顧客がその仕事の対象となる。その対象となる人びとの顔は販売の仕事でもないかぎり、見えていないことも多いでしょう。
また、仕事の過程においては、いっしょに働く同僚や上司、協力会社などのためにする仕事もあるでしょう。

家庭での仕事はとうぜん自分自身を含めた家庭内の成員のためにする仕事になるでしょう。子どものため、夫や妻のため、両親や兄弟、親戚なども含めた人たちのために行う仕事であることもあるでしょう。家庭での仕事はおたがいに仕事の対象となる相手の顔がみえているので、手を抜くことはあっても、明らかに相手にとって害になることは避けるのではないでしょうか。

コミュニティの仕事もコミュニティの成員のために行う仕事です。家庭とは違いますが、多くの場合、対象となる人の顔がみえているのではないでしょうか。いや、いまの世の中だと地域コミュニティ内の成員の顔はかならずしも見えていないのかもしれません。顔がみえない相手のために、地域の清掃や地域の取り決めを行うための話し合いを行うのは、顔がみえていないがゆえに力が入らないということもあるのかもしれません。
友達や趣味の仲間などのコミュニティだと、もうすこし事情は違うでしょう。おたがいに顔がみえて、よく知っている同士なので、家庭内の仕事と同様に相手の害になることはしないでしょうし、できれば相手が喜ぶことをしてあげようと思うのではないかと思います。



自分のため、家族や友人のため、仕事はいくらでもある

本来、この3つの領域の仕事のいずれもが生きていくためには必要な仕事なのではないでしょうか。ひとりでは生きられない社会的生物である人間が生きるための場として、生きるために人が関わっていく対象に、この3つの種類があると考えられるのではないでしょうか。

それがどういうわけか、企業組織内で見ず知らずの顔のみえない相手を対象にした仕事ばかりが、仕事であるかのように考えられてしまう。
実際の対象となる人の顔がみえないがために、企業組織内コミュニティの成員である同僚や上司が仕事の対象者であるという勘違いが生まれ、同僚や上司の顔をみて仕事をすることになる。果ては評価システムとそれに連動した給与のために仕事をしようとし、そのための仕事術ばかりを身につけようとする。ほとんど本来の生きるということは何の関係もない数字の世界に、自分の生きる時間をはじめとするリソースの大部分をつぎ込んでいきます。
さらにそれができない人も、そうしたビジネスの世界の習わしからドロップアウトして家庭やコミュニティに回帰するわけでもなく、いじけて自分の殻にとじこもるだけ。自分はどうせダメだからといって、自分を納得させようとする。

もちろん、それでも生きようとすれば仕事はついて回る
企業組織内での仕事だけでなく、家庭での仕事、コミュニティの仕事も含めた、自分自身を生かすための仕事が。

朝起きれば歯を磨き、トイレに行き、時間があれば朝食の準備をし食べる。汚れた食器や衣服は洗わなくてはいけないし、ほっておけば住んでいる部屋は汚れてくるから掃除はしなくてはいけない。自分自身の汚れを落とすために風呂に入らなければいけないし、心の汚れを落とすため、ストレス解消のため、何か対処しなくてはならない。生きるために必要な何を手にいれるにも、自分以外の誰かとのコミュニケーションが必要になる(たとえ、それがコンビニの店員だったとしても)。

自分ひとりのことだけ考えてもやるべき仕事はいくらでもあります。
家族や友人のことを考えれば仕事はさらに増えるはずです。
こうしたことをちゃんと視野にいれて考えるなら、すくなくともあなたが日々、会社のなかでやっている仕事だけが、仕事ではないことに気づくはずです。

仕事術とは生きる術(すべ)

仕事術というとき、本来、こうしたすべての仕事を射程にいれて考えていただきたいと思うのです。
あらゆる仕事はデザインの仕事です」というとき、その「あらゆる仕事」には家庭での仕事、コミュニティでの仕事を含んでいます。

その意味では、仕事術とは生きる術(すべ)にほかなりません

もっと視野を広げれば昨日の「2009-07-18:ざるかぶり犬とエジプトのミイラ」で書いたような、死者をどう弔うかも含めて、死を含む生をどう生きるかが問題になってくる。単に現代の社会のように死をできるだけ日常の視野から追いやり見えなくして、死の不安を先送りするというだけが生死の扱い方ではないでしょう。

そして、その生や死をどう捉え、どう実行するかに民具やそれを生むための技術が関わってくる。「FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具」のような本もそういう観点でみないと、つまらない。生きる術(すべ)とそれを支える道具という観点で、道具のデザイン、開発を捉えるべきです。なんでも自動化してラクにすることが生きることにどう影響を与えるかという点も含めて。
それも含めて生きる術(すべ)=仕事術です。



勤務先にしがみつく術より、誰かの役に立つ仕事をするための術を

当たり前ですが、企業組織内でほめられるような仕事をしたからといって、生き延びられるとは限りません。今月もクビにならずに済んだからといって生きていることにはならないでしょう。

勤務先が変わっても、むしろ、それで生きるための仕事が向上することはいくらでもある。ひとつの勤務先にしがみつくことが生きることとは別物であるのは考えてみればわかるはずなんだけど、勤務先にしがみつくための処世術ばかりを身につけるのに必死で、自分自身が顔のみえない相手にとって役に立つ仕事を行うためのスキルを高めようと努力すること、それを仕事術と捉える人もとてもすくないように思います。

たとえば、人間中心設計プロセスのなかでサブツールとして使うペルソナというユーザーモデルも顔のみえない人のことを想像し把握するためのツールですが、それを正しく理解できている人に、僕はこれまでほとんど会ったことがありません(たぶん片手で足ります)。

自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら―

生きるためには何が必要か。他人を生かすためには自分はどうしたらいいか。
そうした生きる術について日々気にして考え続けない限り、つまらぬ処世術以上の仕事術は身に着かないのではないでしょうか。

生きる―そのことを考えれば、「休み休みでも、最後まで自分が謎だと思うものにこだわり続ける」ことは当たり前のことになってくるでしょう。あるタイミングでは要領良く問題をパスできたとしても、結局それはあとでより大きな問題として自分に返ってきます。要領のよさでパスしつづければするほど、自分でその問題に立ち向かっていく能力を養う機会を失うだけですから。

いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら、その仕事はデザインなのです。

生きる術(すべ)としての仕事術。
仕事術というものをそうした視点から捉えなおし、自分の生活そのものを思い返してみてはいかがでしょうか。



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