FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具

竹で編んだザルをかぶった張り子の犬―ざるかぶり犬

犬という文字に竹かんむりをつけると、笑という字になる。
そんな言葉あそびから生まれた玩具が、ざるかぶり犬。

FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具


もともと犬は多産でありながら安産であることから、妊娠した女性や子供も守り神とされ、子供が生まれると犬の張り子を贈る風習が東京をはじめ各地にあったそうです。
そんな犬の張り子にザルをかぶせて「むずかる子を笑わせ機嫌を直す」という思いが、このざるかぶり犬には込められているそうです。

土地の生活文化に根差した玩具

そんなざるかぶり犬が表紙になったのが、この『FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具』という本。
この本のなかに登場する玩具は、ざるかぶり犬をはじめとして、全国各地のどれも手づくりの郷土玩具がその愛らしく素朴な表情のまま紹介されています。

そのむかし、土地ごとに文化は独自の発展を遂げました。いまほど交通も情報も便利な時代ではありませんから、自分たちの身の回りにあるものを使い、長い時間のなかで積み重ねられた文化の上に、ものがつくられていました。つくられるものには、その土地の色が反映されることが自然だったようです。

こうした郷土玩具は単にその土地に根付いていたというわけではありません。安産、健康、五穀豊穣などを願う宗教儀礼的なものと結びついていましたし、その土地の生活を支える技術とも結びついたものでした。
ものづくり全般が、それぞれの地方の生活、生き方に根差しており、ここで紹介される郷土玩具もそうしたものづくりのなかの一部だったのです。

各地域ごとの独自の発展

この本の目次は、下の写真のように日本地図のうえで、どこにどんな郷土玩具があるのかを示したものになっています。

FOLK TOYS NIPPON 目次


これをみると、なかなかおもしろい。

たとえば、網野善彦さん(「東と西の語る日本の歴史/網野善彦」)や宮本常一さん(「日本文化の形成/宮本常一」)はかつて東と西では文化が大きく違ったと語り、その違いのひとつの例として東日本の馬文化をあげています。
それがこの日本地図上の郷土玩具の分布にもみられ、京都などの一部を除くと馬の玩具は東北などの東日本に多くみられます。

また、東北地方には竹が生息しませんので、ほかの地方では多くみられる竹を編んだ民具も、東北ではあけびや山ぶどうで代用されています(「2009-06-27:山ぶどうの手提げ篭」で紹介した山ぶどうの篭も山形県の月山で作られたものです)。他にも、イタヤカエデという若い木の幹を帯状に割いて編む技術もあります。この日本地図上でも秋田のイタヤ細工のイタヤ馬が紹介されています。とうぜん、竹が生息しない地方ゆえ、自分たちの身近で手に入る材料を工夫して用いたその土地土地に根差した技術です。

こんな風に玩具の分布ひとつとってみても、各地域の気候や自然環境と人びとの暮らし、それに必要な技術、文化というものが非常に強い結びつきをもっており、かつ、それぞれの地方で独自の発展をみせているのがわかって面白いです。

自分たちの生活文化の文脈で―

基本的にこうした玩具は、玩具をつくる専用の技術によって作られているわけではなく、それぞれの土地で必要とされる道具をつくるのに必要であり、かつ、その土地の自然環境に応じて発展したものづくりの技術をそのまま応用する形でつくられています。

玩具づくりもその土地の生活文化とつながっている。もちろん、それは子供の玩具や大人が愛玩する用途のものだけでなく、神社などの授与品としての玩具でもおなじです。それは土地の生活文化という文脈から切り離せないものでした。

他所の技術をみて、自分たちもそのまま取り入れようなんて発想はない。他所の技術に刺激されても、それを自分たちの土地での生活・仕事にあうものに変換して取り入れています。決して他者の文脈と自分たち自身の文脈を見間違えることはなかったのでしょう。

ヒューマニズム? なにそれ?

そういう意味で、この本のコラムに書かれた、こうした表層的な見方は非常につまらないものだと感じます。

近年、表層的なデザインへの懐疑や格差、金融至上主義崩壊という大きな時代の流れなど、劣化したモダニズムの氾濫によって、再びフォークアートや民藝への回帰が起こっています。このタイミングでこの本が出される理由も多分そうでしょう。
柳本浩市「ジラルドとイームズ、ヒューマニズムとしてのフォークトイ&アート」
『FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具』

ヒューマニズムの回帰としてフォークアートや民藝の流行をみるのは勝手ですが、実際の郷土玩具も民藝もここまで紹介してきたとおり、いまの時代の流行などとは無関係に各地域の暮らしのなかで生まれ出てきたものです。
そうした各地域における生活や歴史、地域ごとの自然環境とそれにひもづく技術などの文脈を背景として捉えずに、単なる流行という側面でそれらをみてしまうのは、なんて現代的な見方だろうと思えてしまうのです。

それぞれの土地で暮らした人びとの生活文化の文脈のなかで生まれ、引き継がれた玩具をみるのに、それとはまったく異なる現代社会の文脈で非常に皮相な見方で論を展開してしまっているのは、見る目のなさ、目利きの力のなさを感じます。
民衆の技術にほかならないフォークアートを、その作り手である民衆の生活や文化をみることなく、単なる流行の受け手としての現代人の行動だけをみて語ってしまうのは、まったく嘆かわしい。正直、頭わるい?って思いました。

魅力的な玩具が満載の一冊

まぁ、そんなコラムも一部含まれますが、全体的には良い本だと思います。
写真もきれいで、魅力があって思わずほしくなる玩具が多数紹介されていますので、興味のある方はぜひお手にとってみてください。

冒頭の写真にもあるとおり、僕もこの本を読んで、その愛くるしさに魅了されて、ざるかぶり犬を買っちゃいました。
ぜひ、そんな出会いがあるといいですね。



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この記事へのコメント

  • いまどき

    はじめまして。偶然拝見しました。この本の存在すら知りませんでした。今でも郷土玩具という名前で生産されているものはありますし、私もまねごとをしています。その土地土地で「もの」が生まれて、需要のあった時代というのは既に遠く、おみやげとか趣味品ですよね今では。そういう意味で「今のは偽物だ。」という人もいるし、そうした古作の玩具を集めて自慢している人もいます。確かに昔の生活感情で作られていたものはけなげです。でも、その土地土地に昔あって、今なくなりかけている「もの」を「本物」ではなくともあってもいいんじゃないかと私は思っているんです。あくまで一個人の意見として。
    2010年04月03日 18:02

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