大まかにまとめると以下の5つか。順不同。
- 誰のせい?
- 道具とワザ
- 基礎インターフェイス論
- 類化能力:つなぐ力
- 生態学的多様性
生活文化と経済をクリエイティブ力をもった人びとの観点から考えるというのが大きなテーマとして。
誰のせい?
何か不都合があると他人のせいにする人が増えているのではないか? うまくいかないのは、方法がわからないからだとか、道具がわるいとか、あるいは、相手がバカだからとか、とにかく不都合の原因を外に求め、さらに外側が改善されることを当たり前のように望むようになっているのではないか?- うまくいかないのは誰かのせい?
- 雨が降るのは誰のせい? 雑草が茂るのは誰かが悪い?
- 雑草が茂るのは仕方がない。手入れをしよう
- わかりにくいのは誰かのせい?
- 他人を変えたければ、まず自分が買われ!
- 何のためのものづくり?
人工物と自然物。「デザインしすぎない」。人工物をつくるのだとしたら、それは何のためにつくるのか、どれだけの量つくるのが適切か。大量生産は必ずしも必要?
道具とワザ
「解釈を代行するのが道具」。道具によって技能を外部化することで、身体のほうのワザは退化する。便利な道具が増えれば増えるほど、人間が身体に宿している身体的能力は失われていくのではないか。そこには「人的資源の生態学的問題」が隠れているのではないか?- 形式知化可能な手法と暗黙知的なワザ
- 日本的な「人間依存性」と西洋的な「人間非依存性」
- 2つの道具:ピアノや自転車とiPhone
- 手仕事の日本
- 文字以前、歴史以前
- 物語、枕詞、見立て
- 真似、祭り、芸能
- 型の学びと複製技術
属人性を排した平準化を目指すか、個の多様性を残したワザの領域を重視するか。ワザをもった職人によるものづくりか、機械化によるディストリビューションか。知恵はどこに置き、どう保存していくのか。文化はどこへ行くのか。
基礎インターフェイス論
人はどうモノや世界に接しているのか。接地面としてのインターフェイスというものをより基礎的なところから考え直す必要があるのではないか。人の世界認識としてのインターフェイス。
類化性能:つなぐ力
「違う」ではなく「同じ」。表面の類似にではなく、より基本的な類似を見抜ける力が必要では? モノを表層の形によってのみ捉えるのではなく、「物質の内部に潜む諸力の混淆」を感じとる鋭敏な感性が必要ではないか。- アナロジー思考
- 情報は動かすことで別の顔をみせる
- 取材能力、発想力、編集能力
- 大量の情報に溺れながらもがいてみることの重要性
- 要領のよさよりもねばり強さ
- 生の連続性
科学の客観性に偏向せず、個々の人間がもつ直観の意味を再考し、それを養う方向性を見いだす必要があるのでは?
生態学的多様性
東京に売っているものがどこの地方でも売っている。おなじものがどこでも作れる。そうした平準化だけでよいのか? 変化は常に外から起こるはずだと思うが、すべてが平準化された先に、変化をもたらす外部はどこに残るのか。また、多様性を著しく失った状況では環境変化に適応できず全滅のおそれがあるのでは?- 何をリソースとするのか? リソースの地域性
- 手仕事と自然の財
- 小さいからこそできること
- 人間そのもののもつワザやつながりを財とする
- 人的資源の生態学的問題
- 生産の単位としてのイエ、ムラ
- 本当のクリエイティビティとは? クリエイターは社会にとって何の役割をもつか
伝統とは本来アグレッシブなもので、型の繰り返しのなかで新しいものを生みだしていくものだろう。それは生産が消費の場である生活単位により近い状態において成立するとも思われる。とうぜん、その生産の単位はそれほど大きくはない。必然的に多様さが生まれ、維持されるのではないか。
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