古代から来た未来人 折口信夫/中沢新一

1つ前の「生とは生の浪費のこと」というエントリーでは、いま夢中になっている2人のうちのひとり、バタイユのことを書きました。
もう1人の折口信夫さんのことは、今回、この中沢新一さんの本を紹介しつつ、すこし書いてみようと思います。



それにしてもこの本は読みやすい本でした。
折口信夫をここまで読みやすく語ってしまうのは、逆に罪なんじゃないかと思うくらいに、さらっと読めてしまう内容でした。
それでも6章の「心の未来のための設計図」あたりは折口さんを「未来人」とみる中沢さんらしい主張も含まれていて、おもしろかったです。
ただ、今日はそこには触れず、折口の学を紹介している前半部分をちょっと舐めてみる程度に。

別化性能と類化性能

生とは生の浪費のこと」ではバタイユと折口さんをつなぐキーワードは「古代」であると書きました。
『古代研究』という大著もある折口さんを、中沢さんは明治・大正・昭和の世に生まれながら古代を生きた人と捉えています。それは「古代から来た~」というタイトルにも反映されていて、近代の世に生きながらシャーマニックの古代の人びとが生きた時空を体験した人と述べられています。

”彼自身がひとりの「古代人」であったればこそ、奇跡のような学問がつくれたのである”と書いています。

そんなひとりの「古代人」としての折口さんは、古代人の思考能力の特徴として「類化性能」をあげています。

折口信夫は人間の思考能力を、「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えている。ものごとの違いを見抜く能力が「別化性能」であり、一見するとまるで違っているように見えるもののあいだに類似性や共通性を発見するのが「類化性能」であり、折口自身は自分は「類化性能」がとても発達していると語った。

ものごとの違いを見抜き、分けることで分かる分析的な能力である別化性能が現代的な思考の能力であるとすれば、類化性能はジェームズ・フレイザーが『初版 金枝篇』共感呪術(類感呪術)と呼んだものを含む、一見異質なもの同士をつなぎあわせることで、そこに新たな発想を生み出す思考能力です。もちろん、それには外観の類似にとらわれず、外観の相違の裏側にある本質的な類似を直観的に見抜く力が必要になります。

たとえば、共感呪術では、植物の芽吹くさまなどの対象を真似ることで対象のもつ性質をみずからも授かろうとしたりすることです。その延長線上に真似び=学びを重視した申楽(能楽)へとつながる古代の舞踊もあります。

アナロジーは内からみる

つまり、類化性能というのは、僕が『デザイン思考の仕事術』でも重視しているアナロジー思考にほかなりません。それは別々のもの同士をつなぐことで、いままでにない新たな発想を生み出す思考方法です。

「類化性能」とは、いまの言い方をすれば「アナロジー」のことであり、詩のことばが活用する「比喩」の能力が、それにあたる。ひとつのものごとを別のものと重ね合わせることによって、意味を発生させるやりかたである。

実はこのアナロジー思考をはたらかせるためには、科学のように物事を客観的に外側から眺めるのではなく、物事を前にした自身の体験を内からみる参与的な見方こそ重視する必要があります。

内からみる参与的な見方というのは、バタイユのことばで置き換えれば「内的体験」になるでしょう。簡単にいえば、外の他人のことばよりも自分の内の声を聞くことです。

けれど、この類化性能をうまく使えなくなってしまっている人がいまはとても多い。
僕がデザイン思考のワークショップなどでKJ法などで似ているもの同士をグループ化するといっても、そこに書かれた人びとの体験としてみるのではなく、単に表面に書かれたキーワードによって分類してしまう人が非常に多いんです。表面的なキーワード、すなわちことばとして表れている概念しかみることができず、元の調査データのなかに表現されている人びとの行動やその背景を見通すことができない。先の言い方をすれば、まさに外観的な類似に惑わされて、より本質的な類似を見抜けないということになる。
それは外部に元からあるカテゴリーという道具をただ機械的に用いているだけであって、その人自身の内になんのアナロジー思考もはたらいていません。もちろん、それは見た目は似ててもKJ法ではありません。

既存のカテゴリーという外側の視点でみるだけでは人間の生において新しい発想と認められるようなものは何も生まれてきません。『デザイン思考の仕事術』でも「わかる」のではなく「なってみる」ことの重要性について触れていますが、外部の離れた場所から傍観者的にみるのではなく、内的な体験をともなう参与観察者としての立場(=在点)においてみることが大事です。それがいまの多くの人の思考には欠けている。

外からやってくる

僕が最近、古代的な思考方法としてのアナロジーや、それを重視する折口さんやバタイユにこだわっているのはその点からです。

内的体験としてみれば、実は逆説的ではありますが、内側にない外側にも敏感になれる。自分にない外がやってくるのがわかるようになる。僕が「自分の外に出ろ」と繰り返すのは、まさにそうした外からやってくるものを呼び水として、内と外の境界に立てということにほかなりません。

折口さんもその境界にこだわった人だと思います。
もちろん、折口さんがこだわったのは、古代人がそれにこだわったからです。古代人がこだわった、生きている者が住むこの世と死者の世界としてのあの世の境に。



折口の考えでは、文学も宗教も、みんなが同質なことを考え体験しているような共同体の「内」からは、けっして生まれないのである。人の心が共同体の「外」からやってくる、どこか異質な体験に触れたとき、はじめて文学や芸能や宗教が発生してくるというのである。

この外からやってくるものを受け入れる儀式=方法が祭りであり、神遊びです。この外からやってくるものを受け入れつつ、かつ、それを内的体験を通じてアナロジカルにみる。そこに共同体の内にはない新しい発想が生まれてくる。
僕がデザイン思考において異質な者同士のコラボレーションを、グループワーク形式の仕事の場における発想の創出を重視するのもこれとまったくおなじ考えです。
その点で、僕のデザイン思考は、IDEOのデザイン思考のように近代的 modern なものではなく、バタイユや折口さんの思考に近い古代的 archaic なものだと思っています。

人類の思考の本性

そんな風にこの本は、僕の『デザイン思考の仕事術』と並べつつ読んでいただくという方法もありなのかなと思っています。

折口は「古代人」のなかに、時代的または地域的に決定づけられてしまう限定された人間ではなく、むしろ普遍的な「人類の思考の本性」を見いだそうとしていた。

そう。僕が古代に関心をもつのも、類化性能に代表される古代人の思考能力に、普遍的な「人類の思考の本性」の一部を見いだすからです。そして、それは分析的で科学的な方向に偏った現代が忘れてしまっている、もう一方の「人類の思考の本性」であるはずだから。

もちろん、僕のデザイン思考なんて話は置いておいても、折口信夫という思考を知りための入門書としては、とてもわかりやすくまとめられていておすすめです。とにかく、これからは中沢さんもいうとおり、こうした折口さん的思考を取り入れられるかどうかで世界は大きく変わるか、このまま袋小路の奥底でのたうちまわり続けるかの分かれ目になるのではないかという気がしています。



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