「2009-07-11:東京国際ブックフェア」でもこの2人に関する本が含まれていました。
この2人に共通するキーワードは「古代」そして「生」。
2人とも歴史以前、文字以前の古代に焦点をあてながら、人間いや生命について考えている。
このあたりはいずれまとめてみたいと思っていますが、今日はバタイユの『エロティシズム』
生は、その全体から眺めてみると、再生(生殖)と死が織り成す巨大な運動である。生は絶えず生みだすが、しかし自分が生みだしたものを無化するためにそうしているのである。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』
バタイユは生というものを本質的に過剰に浪費するものとしてみています。その経済においては生産よりも消費が根本にある。個の生産性よりも、全体としての消費が。
禁止と侵犯
先に続く文章を引き続き引用してみましょう。このことについて原初の人々は漠然とした感覚を持っていた。彼らは、死に対し、そして再生の眩惑に対し、禁止という拒絶を対比させた。しかしけっしてこの拒絶のなかに閉じこもりはしなかった。いやむしろ、できるだけはやくこの拒絶から抜け出るためにだけ、この拒絶のなかに閉じこもったのである。彼らは、この拒絶のなかへ入っていったのと同じやり方で、つまり突然の決断で、この拒絶から出ていったのである。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』
バタイユは禁止というものを、生=自然のもつ根源的な暴力への拒絶としてみると同時に、その拒絶された対象である生=自然を聖なるものとして位置づける役割をもつものとしてみています。
それゆえに禁止に対する侵犯は、人間が拒絶した聖なるものへに再び近づく行為であり、「原初の人々」は禁止に対して常に侵犯を行っている動物を聖なる存在としてみていたはずだといっています。
バタイユは、ラスコーの壁画など動物を頻繁に描きながら、自分たち人間をほとんど描かず、描いても変装した姿で描いた「原初の人々」について考えながら、「当時、人間は人間自身を恥じていたのに違いない」といい、また「私たちのように、元来の動物性を恥じてはいなかったのにちがいない」といっています。
禁止を常に侵犯する聖なる動物性。それに対して、自分たち人間は暴力に対する不安のあまり、禁止のなかに閉じこもっている。だからこそ、「原初の人々」は「できるだけはやくこの拒絶から抜け出るためにだけ、この拒絶のなかに閉じこもった」のでしょう。
個としての生、全体としての生
さらに引用を続けると、バタイユはこうも書いています。不安が人間というものを形作っているようにも思える。いや不安だけではない。乗り越えられた不安、不安を乗り越えることが人間を形作っているように思える。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』
不安が禁止のなかに人を閉じこもらせる。しかし、また人間はその禁止を侵犯することで不安そのものを乗り越えていく。そこに人間の二重の生があるように思えます。
生は本質において過剰だ。生とは生の浪費のことだ。生は限りなく自分の力と資源を使い尽くす。生は、自分が創造したものを際限なく滅ぼす。生ある存在の多くはこの運動のなかで受動的である。しかし極限において私たちは、私たちの生を危険にさらすものを決然と欲する。ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』
個に注目すれば、それぞれ不連続な生をもつ個体は各々が自分の生に固執して、自らの生を危険にさらすものを恐れ、その危険を避けようとさまざまな禁止で身の安全を確保しようとするのでしょう。
しかし、全体としての生は、バタイユがいうように生産的である以上に浪費的であって、そのダイナミックな連続性において自らがつくりだしたものを消尽していく。そのダイナミズムから個々の生も無縁ではなく、現代人が忘れてしまったそうした全体としての生のダイナミズムを、古代人はちゃんと知っていた。そして、それが生をもつ動物にほかならない人間の欲望であることも。
ここに引用した一連の文章を読んで、僕はすっかりバタイユにやられてしまいました。
そして、あー、この地平で物事を考えていかないといけないなと思いました。
「生とは生の浪費のこと」。
そう。この地平で生活文化だとか経済だとかを考えていく必要がある。
それは折口信夫さんの古代学にも通じるものがある話なので。
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