点の思考、線の思考

みなさん、思考する際に、静止した点で考えていないでしょうか。

動かない固定された何かを過程して話をしたり、最終的なアウトプットや結論ばかりを重視しすぎてはいないでしょうか。
思考の過程そのものが重要で、思考する過程を共有することが最終的な結論や定義を共有することよりも意味のあることだということに気付いてらっしゃるでしょうか。

行く川のながれは絶えずして

機械やシステム、その他、人間がつくったモノが相手であれば、それでも構いません。しばらくほっといても、そうしたモノは変化しないのですから。いったん定義した機能や形態はそうとう時間が経たない限り変わりません。それなら静止した状態でモノを考えても困りません。

しかし、それが人間や生物なら違います。
この季節なら庭はちょっとほっておけば雑草が生い茂ります。人だって常に変化します。まさに鴨長明が「行く川のながれは絶えずして しかも本の水にあらず」と方丈記に書いたとおりで、人間や生物はおなじようであっても、常に「本のそれ」であることは一時たりともありません。
そうした変化するものを対象とするのに、そのもののもつ性格などを静止した点に固定してしまう思考はなにかと不都合を生じてしまうはずです。

そう。好みも変われば、気分も変わる。髪の毛や爪は伸びるし、体調だって変化する。
価値観だって相対的で、「あの人はお得が好き」なんていっても、そんなことは大抵の人にあてはまるし、その人のなかで常に「お得」が優先されるわけでもないでしょう。

ことばで固定できない、その人らしさ

人間を固定した点で捉えるのではなく、常に変化するものとして線的に捉えることが必要ではないかと思います。
しかも、その線は直線ではなく、ぐにゃぐにゃと蛇行する線であるし、ときには突然まったく別のところで線を描きだすような非線形的な動き=変化をするものではないでしょうか。

人間を捉えるには、すくなくともある程度の時間が必要なはずです。長い時間をいっしょにすごすことではじめて相手のことがわかるということは多いでしょう。それも仕事の仲間であれば、仕事中のその人のことはわかってもプライベートのその人のことはわからないなんてことはざらにある。

僕のこのブログをずっと読んでくれている方、さらに僕の書いた本を読んでくれている方でも、僕がデザインというものをどう捉えているかについては、なんとなく想像がつくようになっていたとしても、僕がどんな人かはわからないでしょう。

ただ時間をいくらかともにすれば、ことばで説明できる以上に相手のことがわかるようにもなるというのも事実でしょう。こういう場合にはこの人はこうするだろうというのを、ことばで説明することはできなくても、その人が実際にその場面でそういう行動をとれば、その人らしさを感じるはずです。

そこにはことばで固定できない、その人らしさというのがある
そうしたものをないがしろにして、人間を一点に固定してしまいがちな思考はかなり危ういのではないでしょうか。
すくなくとも、ある程度の時間をかけて人間を線のなか=動き・変化のなかで捉えていくという姿勢=思考が必要なのではないかと思います。

レッテルをはって、わかったつもりにならない

ところが、人間中心のデザインを志している人ですら、そうした変化する人間を固定したがります。
ペルソナなどでも、それを作成する段階での検討よりも、アウトプットを重視したりします。それでは、人間を変化のないモノとして扱うようなものです。それのいったいどこが人間中心のデザインなのかと思います。
もちろん、マーケティングでもおなじです。顧客像をなにかしらの固定されたレッテルの束として捉えるなら、すでにそれは人間をモノ同様に殺してしまっているのだと思います。

僕からすればアウトプットされたペルソナなどは単なる議事録のようなもので、実際に重要なのはそれを検討する段階での議論そのものの共有にあると思っています。

書かれたもので人間などというものを表現できるなら苦労はありません。似顔絵などでその人のらしさを表現するのならそれでかまいませんが、似顔絵をみて、その人が必要とするものやその人に適したインタラクションのデザインができるでしょうか。

「お得が好き」「家族思い」「なんでも調べてから決める」など。そういったことばでレッテルをはって、ある人を理解したつもりになってしまうなら、それは人間中心のデザインでもなければ、ペルソナの有益な使い方でもないと思います。

人間を固定した枠組みにはめ込んでしまう罠を回避する試み

人間を、あなたが理解できることばの枠組みに押し込めようとしているのなら間違いです。

むしろ、人間中心のデザインで人間を理解しようとすること、ペルソナというユーザーのモデルをつくろうとすることは、そうしたレッテルで人間を固定した枠組みにはめ込んでしまう罠を徹底的に回避しようとする努力そのものです。

点として固定されたアウトプットに頼るのではなく、もっと繊細でこわれやすい思考の過程や議論の過程での体験をもとにデザインを組み立てる。そうした活動に身を委ねられるか。そういうことが大事なのではないかと思います。

もちろん、この話は単純に人間中心のデザインなんて狭い範囲の話ではありません。思考そのものやコミュニケーション、物事の捉え方全般に関わることであるはずです。
僕らはきっとあまりに間違った意味での唯物論に陥ってしまっているんじゃないかと思います。



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