村田純一は、人間がおこなわなければならない解釈を代行するのが道具だと記している。人類の技術の歴史は、まさに解釈の必要性を人工物を制作することによって軽減してきた歴史だということになる。村田純一「解釈とデザイン 技術の本性と解釈の柔軟性」
コップを使うことは、水をいかに飲むべきか、飲むとはどういうことか、といった解釈を行為自体が代行する。「人工物を利用するものは、自ら改めていちいち問題解決に取り組む必要はなく、問題解決に必要な知的活動をそれらの人工物にゆだねてしまうことができる」(村田純一、前掲書)のだから、道具は、人間の解釈の柔軟性を奪いかねない。
「人間がおこなわなければならない解釈を代行するのが道具」だとしたら、そこにはすでにマニュアル人間化の方向性が含まれています。道具を用いることで人間は「問題解決に必要な知的活動をそれらの人工物にゆだねてしまう」というのは、まさに自分で考えて行動をすることなくマニュアルどおりでしか行動できないことへの道を開いているともいえます。
ここに、ものづくりをする人、文章を書く人、その他さまざまな形で他人にソリューションを提供する人の倫理観が求められる地点があるのではないでしょうか。
道具化とワザ化
すこし前に書評を書いた『もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る』これは先の文脈でとらえるなら、個々の道具利用者の解釈にたよる部分を極力減らそうとする西洋と、個々の道具利用者の解釈にゆだねる部分を尊重する日本という対比としてみることもできると思います。後者では、解釈を道具の側に外化してしまう代わりに、繰り返し道具を使うことで自分の身体自体が道具化(職人化)します。修練でワザが身に着くことで、最初の頃に必要だった解釈は不要になるのでしょう。
文化によって条件づけられたからだの使い方、身体技法が、いったん形成されたあとでは、身体に刷り込まれた記憶(心理学者のいう「手続き的記憶」)の集合体である、ある範囲の人々に共有された「おこない」として、きわめて強い持続力をもつことも、文化によって異なる洗濯の姿勢など、これまで多くの具体例によって検討してきた通りだ。
ここで川田さんが指摘していることは、たとえ有形の道具として解釈を外在化されなくても、個々の人びとの身体に刻まれたワザがその身体的行動の身振り・振る舞いが特定の地域で文化的に共有されることで、「強い持続力」をもちうるということであり、それゆえ、川田さんは同書のなかで「無形文化財」の維持という問題にもふれています。
メタ・マニュアルとしてのインターネット
先に西洋と日本を対比して、解釈の道具化の傾向をもつ西洋と、解釈のワザ化の傾向をもつ日本と述べましたが、もちろん、西洋においても現代のようにテクノロジーによってつくられた多様な道具・機械が存在しない時代は、そうした身体的な修練にたよる部分はあったはずです。西洋でも日本でも、いまでも人間に必要とされるすべての仕事が道具化あるいは道具化同様のスキルの平準化を目指したマニュアル化が実現できているわけではありませんから、生きて仕事をしようとすれば、とうぜん、いろんな部分で自分自身による解釈は必要になるはずです。
ただし、そこで1つ問題視してよいのではないかと思うのは、知のアーカイブ化として称されるインターネットの存在です。いまや、そのインターネットが一部ではメタ・マニュアルとして機能している感がある。
すべての方法がそこで示されているとまでは誰も思っていないのでしょうけど、ただ、それでいて、それは単に品揃えの問題で、将来的にはインターネットで検索すればあらゆる問題を解決する方法が提供されるようになることが暗に期待されているかのような傾向がないでしょうか。そのようなメタ道具的な機能をインターネットによってつながったコンピュータやその他のガジェットに期待しているようなそんな価値観があるように思われます。
そこに不気味さを感じるのは、僕だけでしょうか?
「誰かのせい」と「仕方がない」
すこし前にとあるブログがプチ炎上ぎみだったのを、ある人が見て「最近、ブログの読者はお客さん気分の場合もあるね。だからおもってるのと違うことかいてあると期待はずれとか文句とかになる」というコメントを僕にくれました。僕もまさに同感で、まさにこうしたところに、何か1つ正しい解釈を想定するかのような、解釈の平準化推進傾向というか、知のマニュアル化を推し進めるような気配が漂っているような気がして不気味な感じがするのです。
そんなにみんな、自分自身の解釈する力を外部化して、道具的な知にたよって生きていきたいのでしょうか?
生き方も、いろんな物事の感じ方も、すべてマニュアル化、方法化、道具化して、そこから外れるものがあれば糾弾したいと思っているのでしょうか?
自然の中に暮らしているときに不幸な出来事が起こりますと「それは仕方がない」となるということです。一方、都会の中で不幸な出来事が起こりますと「誰のせいだ」ということになります。溝に落っこちたら、誰かがその溝を掘ったのですから当然のことですが、やはり「誰かのせい」というのが都市です。ですから、日本人が変化したのではなく日本が都市に変わったのだというふうに考えると、そういう変化は大変よく理解できると思います。養老孟司『手入れ文化と日本』
養老さんのいう「都市」は人工物である道具です。西洋的な解釈を外化した道具です。解釈を外化した道具がきちんと機能しなければ、道具のせいとなる。道具をつくった人のせいにするか、道具が壊れたのだと捉えるでしょう。
それと似たようなことが、ブログなどのネット上の他人の意見に対して起こってしまっている。自分の意図したものと違うものが出てくると、その意見をだした人のせいにするか、その意見が壊れていると考える傾向があるのではないでしょうか? 人それぞれ価値観が違うし、生きている環境や立場が違うのだから「仕方がない」という風に理解できるおおらかさが失われていく傾向があるように思います。
個々の解釈が可能な余地を守る
こうした点に、ものづくりをする人、文章を書く人、その他さまざまな形で他人にソリューションを提供する人の倫理観が求められると思うのです。きちんと人間個々の解釈が可能な場所を残すということ、すべてを人工的な知に仕立て上げることなく、自然な変化・多様な解釈を許容する部分を残しておくというところに。
すべてを機能化する、形式知化しようとする誘惑には抗わなくてはいけないし、それは不可能だということをはっきりと明示していくことが大事だと思うのです。まさにそれは以前に「人的資源の生態学的問題」というエントリーを書いたとおり、人間自身の資源としての解釈力をいかに人間の生活環境、生きる環境のなかで維持するかという生態学的問題だと思うのです。
あらわれを特権化するのでも、テクストを絶対視するのでもなく、ちがいがあることとおなじであることを、動的な関係として捉えたい。写真は、全的にヴィジュアルでも、ことばに余さず置き換わるのでもない。ことばとヴィジュアルとのあいだの、見る人間の言語化能力や趣向によっても濃度が変わるグラデーションのなかにある。
昨日の「デザイン:情報を公開する技術」では、「データ」や「コンテンツ」という概念の不備について言及しました。それを情報や解釈という概念と混同してはいけないと思います。
「データ」や「コンテンツ」をコンテキストから切り離して、自律的なものとして考えるという過ちを正していく必要がある。情報はあくまで地と図の関係のように、図のみが自律的になにかを表現するのではなく、あくまで地との関係において図としての意味を表現するのだということを明確にしていかなくてはいけないと思います。
その地とは、「見る人間の言語化能力や趣向」でもあるし、「文化によって条件づけられたからだの使い方、身体技法」でもあったりするでしょう。もちろん、図をどのようなメディアのうえに、どのようにレイアウトするか、フォントをどうするか改行をどうするかということも、見る人の解釈に影響を与えます。
そうした諸条件がからみあうコンテキストのなかで「ちがいがあることとおなじであることを、動的な関係として捉」えられる感覚をもたなくてはいけないのではないでしょうか。
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