自分がいいと思うモノをつくれ!

ものづくりをする人がアンケート調査に頼ったり、ユーザーの意見を必要以上に気にするのをみて、たまにがっかりさせられることがあります。

それは完全に調査をする目的を誤解しています。
ユーザー中心だとか、人間中心だとかいいますが、別にそれはユーザーがどういうデザインを評価するかといった意見をきいて、ものづくりをしろなんていう話ではありません。「なんでもかんでもユーザーに聞けばよいってわけじゃない。

それ以前に、ものづくりをする側が何をつくるのがいいと思うかという考えがなくてはお話になりません。それがないがゆえに、やたらとアンケートで人びとの声を聞きたがるし、ユーザーの評価を気にしすぎる。どっちがものづくりの主体なの?って疑問に思います。

他人の意見に左右される前に、自分がいいと思うモノをつくれ!とつよく思います。
自分が何をいいと思うかをその根拠とともにはっきりイメージできるようになれ!と感じます。

もちろん、ものづくりに限らず、自分が何がいいと思うかをはっきりと示せない人が多いような気がします。示せなくてもいいけど、いいものが何かを判断できる目は養っておきたいものです。

そう。目利きの力を。

自分でいいと思うモノのイメージをつくる

何かを買う場合に、他のユーザーのレビューを気にする。他の人も持っていないと買ってよいか不安になる。自分でいいと思うモノを選べない。

ものづくりをする立場である以前に、消費する側の立場で、自分がいいと思うモノの基準をつくれない人が増えているのではないでしょうか。

それでいてマーケティング的な情報には騙されたくないという。
だから、マーケティングの情報にではなく、他のユーザーの声や、身近な人の意見を聞きたいという。

マーケティングだろうが、一般の人の意見だろうが、社会的な評判を頼りにしているのならいっしょだろうと思います。しょせん、それはつくられたイメージでしかないのだから。それよりも大切なのは自分自身で、自分が何がいいと思うかのイメージをつくれるかどうかではないでしょうか。

別に、他人の意見を気にするなということではありません。他人の意見を参考にするのはいい。ただ、それ以前に自分がいいと思うモノのイメージをつくれるかどうかが問題だと思うのです。

自分のなかでいいと思うモノの基準をつくる。価値観をつくるのです。

自分でいいと思うモノをつくる

結局、自分が何がいいと思うかのイメージを自分でつくりあげる力がないから、他人が何をいいと感じるかをイメージすることもできません。

千利休は、自身の茶器の見る眼を養うために、よいと思った茶器の型紙を残していたそうです。それ以上に利休は数千回にも及ぶ茶会の場で、茶器に接する人びとに接し、その反応に接していました。茶器と他人の接触を観察した。利休の見る眼はそれで養われたのでしょう。

自分の茶器をみる眼を養ったうえで、他人が茶器をどう見るかということを中心に人をみる眼を養った。
昨日の「物に意味を与える仕事(思いやりをもって)」というエントリーでは、二次的理解だとか、思いやりだとかということについて触れましたが、結局は、他人を二次的に理解し、思いやりをもって、他人のためになるものをつくる、提供するというのは、利休のように何を他人がよいと思うかということを、自分自身のなかでイメージとしてつくれるかということなのです。
自分自身のなかでそのイメージがつくれれば、アンケートやユーザーの意見を聞くことなどは必要ありません。

そのうえで、自分がいいと思うモノをつくる。
そうした目利きの力があれば、自分で自身をもって「これだ!」というイメージを自信をもって描ければ、他人の意見・評価を必要以上に気にする必要なんて、そもそもないはずなのです。

自分自身の好みを探っていく

『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』では、自分の固定観念の外にでるということがひとつのテーマになっています。
そうしたテーマに沿う形で僕はこう書いている。

自分の固定観念、イメージに物事をとじこめてしまうのではなく、自分の思考の枠組みの外に出てさまざまな人の立場で物事に触れられる力を養うのです。
それにはまず個々人が自分の生活のなかで自分自身の好みを探っていくことが大切です。

自分自身の好みを探る。それは自分がいいと思うもののイメージをつくるという目利きの力を養う1つの方法です。

好みというのは人が物事を判断する際のバイアスです。
それは単なる意識のうえでの好悪だけではなく、たとえば、ヘビが嫌いな人はヘビをみた瞬間に身体が逃げる体勢をとるように、ほとんど反射的に働く部分の好悪も含めて、人を動かすバイアスです。
そうしたバイアスを日常において探っていく。それがとても大事だと思っています。

自分のバイアスを知ることで、他人のバイアスにも目が向くようになります。
何が人を動かしているのかを考えられるようになる。そのためにもまずは自分自身の身体を動かすバイアスである自分の好みをしっかりと探っておくのです。どういう場でどういう作法を行った際に、自分の好みがどう働くかを知っておくのです。

自分の好みの働きを知る。それにはどうすればよいかはぜひ本のほうを読んでいただければと思うのですが、とにかく自分自身を知るためにも自分の好みに着目するというのは大事なことだと思っています。

各自が目利きの力を養うことで―

普段から、こうした自分自身の好みの動きに注意を払い、利休のように目利きの力を養っておく。そうすれば、ものづくりをする人が、何がいいかがわからず、自信がもてないなんて残念なことは減るのではないでしょうか。
つくられたものを使う側も同様で、何がいいかを自分で判断できるようになれば、マーケティング情報に騙されないようにするなんて了見の狭いことはいわず、もっと素直に情報は情報として自分自身で適切に判断することができるようになるのではないでしょうか。

そのように、ものをつくる側、つくられたものを使う側の双方がそれぞれ自分自身のみる眼を養えば、つまらないゴミのように使い捨てられる商品は減るのではないでしょうか。
売るためだけの無駄な生産も減って、日本のビジネスももうすこしまともになるのではないでしょうか。

自己投資だとかいって、つまらぬマニュアル本で他人の方法論を漁って勉強しているつもりになっているくらいなら、もっと自分自身のなかを深く探ってみることで見る眼の修練を行うことに時間を費やした方がよっぽどよいと思っています。

P.S.(2008-07-03 02:15)
やれやれ。「マニュアル本に頼る」ことと「本を自分で味わう」ことの違いがわからない人がいるようなので、いちお書いておきますと、本を読むのがつまらないなんてことは金輪際ありません。僕だって、このブログで再三いろんな本の紹介をしているくらいで、本を読むことは他人にも推奨したい。

僕が言っているのはマニュアル本を単に「方法依存症」的に、マニュアル的な方法の収集の目的でマニュアル化した方法(書いてあることを鵜呑みにするか/けなすかの二者択一)で読むなということです。本を読むというのは、まさに読むことで自分自身のバイアスを見つけるための作業であり、読むことそのものが自身で編集作業にほかなりません。

人間を機械同様になにかしらの言語で書かれたプログラムをコピーしてインストールすれば、誰もが正確に動作するものとでも考えているのでしょうか? 人間とはそういうもの? ことばで書かれた情報/ことば以外で手渡される情報ってそういうもの? 本って何らかのプログラム?

そのことは『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』にも、ここで書いていることは鵜呑みにせず各自がカスタマイズしなければ意味がないとはっきり書きましたし、実際、読んでいただければわかりますが、マニュアル本的な読み方ができるような本にはなっていないはずです。

次のエントリー「デザイン:情報を公開する技術」で書きましたが、情報とデータの違いが理解できていない人が多いようです。それが「本を自分で味わう」ことと「マニュアル本に頼る」ことの違いもわからなくさせてしまっているような気がします。もしかすると、日本でiPhone的なヒューマン・インターフェイスがデザインできないのも、このあたりの違いに鈍感になってしまっているせいかもしれませんね。



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