声と文字(あるいは本というメディアについて)

「手書きであることを突き詰めれば、原稿用紙は不要だろう」
と鈴木一誌さんは『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』のなかでいう。
「原稿用紙は、活字組版のために、出版者と印刷所の文選工の字数の数えやすさと判読の助けとして開発された」とも続けています。
そして、また、
「手書きかワープロかとの問いは、原稿用紙を捨てられるかどうかの判断をも迫る」という。
原稿用紙という存在すら忘れていた僕らには、ハッとさせられる指摘です。



あるいは、今福龍太さんは、
「オーラリティの世界に反響する音声としての言葉は、一度文字記号のなかに落ち着いてしまうと、ミメティックな能力が失われる」
『身体としての書物』で声にだされたことばのもつ模倣的(ミメティック)な性格を指摘すれば、
酒井健さんは、『バタイユ』で、
「言葉と生の一致。言葉が言い表そうとしている生の動きをその言葉自体が帯びているということ。その言葉に生の動きが満ちていて、耳にするとその生の動きが伝わってくるということ。武勲詩の聴衆が、朗誦される詩の言葉に求めていたのはそのようなことだった」
とバタイユが愛した中世の吟遊詩人とその聴衆を結ぶ詩の口誦を評しています。



声に出されることば

さらに、宮本常一さんが『民俗学の旅』でこう書くとき、

私が年寄りたちからいろいろの話を聞くようになったとき、明治維新以前のことを知っている人たちとそうでない人たちの間に話し方や物の見方などに大きな差のあることに気付いた。たとえば維新以前の人たちには申しあわせたように話しことばというよりも語り口調というようなものがあった。ことばに抑揚があり、リズムがあり、表現に一種の叙述があり物語的なものがあった。維新以降の人たちのことばは散文的であり説明的であり、概念的であった。そしてその傾向が時代が下がるにつれて次第に強くなる。知識を文字を通して記憶していくようになると、説明的になり散文的になっていくもののようである。

それは、酒井健さんが『バタイユ』で次のように書くバタイユの姿と重なってきます。

近代人の読書のように文献を机の上に置き黙読して内容の把握に終始するという姿勢をバタイユは中世の文献に対して取らなかった。文献の言葉をいったん暗記して身体に摂取し、それを文献から離れたところで声に出してまるで歌うように、ときには本当に歌いながら発語していたのだ。彼はそうして中世の文字の世界の奥に息づく中世の話しことばの世界の生に触れ、それを体感し、感性の次元でその生と交わっていたのである。とりわけ、この生の非理性的な力、つまり古典古代の言語の枠に収まることができなかった力に出会い、感性を打ち震わせていた。

説明的でもなく、概念的でもない、言語の枠に収まらない生の非理性的な力。それは書かれた文字によってではなく、声として発せられたことばに宿り、その声を耳にする者の感性を震わせる。

そんな声の響きが、書かれた本には宿っているのでしょうか。

音読と黙読

黙読ではなく声に出して読むこと。
松岡正剛さんは『多読術』で、読書の歴史において「いちばん大きな変化は「音読」から「黙読」に変わったこと」といっています。

あまり知られていないことですが、人類が黙読(目読)ができるようになったのは、おそらく14世紀か16世紀以降のことです。それまではほとんど音読です。
松岡正剛『多読術』

「音読」から「黙読」へという話に関しては「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」というエントリーでも紹介しています。高山さんは、そのなかで、印刷術の発達のおかげで聖書は一人ひとりが自分の個室で読めるようになり、それまでの音読から黙読の習慣に移り、さらに、それまで表立ったものだった声が黙読により内にこもることで、内面なるものが存在するように思えるようになるのもこの時期だろうといったことを紹介してくれています。

黙読、無意識、自我

松岡さんの話に戻ると、音読から黙読へという読書の歴史を紹介したうえで、マクルーハンの次のような仮説についても紹介しています。

人類の歴史は音読を忘れて黙読するようになってから、脳のなかに「無意識」を発生させてしまったんではないかというんです。言葉と意識はそれまでは身体的につながっていたのに、それが分かれた。それは黙読するようになったからで、そのため言葉と身体のあいだのどこかに、今日の用語でいう無意識のような「変な意識」が介在するようになったというんです。
松岡正剛『多読術』

これは高山さんの声が内にこもることで内面なるものが存在するように思えるようになったという指摘とも重なりますし、「自我という魔術」というエントリーで指摘したような、人が自分自身を生きて常に変化する存在から、説明的で概念的なものに変化させ閉じ込めてしまう「自我」を近代が発明し、人間にインストールしてしまったことにも重なるのではないでしょうか。

ことばと指示対象の連続性

ここで再び。酒井健さんのから引用。

言語記号をその指示対象から独立した単体たちの差異の群れと見たがる、そしてその群れ(体系)の創造に人間のすぐれた営為を見たがる近代人をよそに、19世紀末の象徴主義の詩人たちは、言葉(例えば「罪」)とその指示対象(罪ある行為、それに伴う感情、意識)とのつながりを重視し、さらにその指示対象が息づいていた原初の混沌たる連続体とも生きた関係を回復しようとした。

もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」で紹介したように、川田順造さんがモノとワザの関係性のなかにある無形文化の喪失―もちろん、そこには無文字文化も含まれる―に継承を鳴らしつつ、失われていく文化にさみしげな視線を送るのも、こうした点につよく関わっているのでしょう。
先のエントリーで僕自身が書いたように、それは紛れもなく、自分たち自身で自分自身のなかの一部を殺し続けながら生きていることだと思うからです。

さらにこれを重ねてみる。

自ら持たぬものと結合したいという人間の欲望がうむアナロジー(analogy)は、とめどない揺動を特徴とする情熱的なプロセスでもある。身体にしろ、感情にしろ、精神的なものであれ、知的なものであれ、何かが欠けているという知覚があって、その空隙を埋める近似の類比物への探索が始められる。

アナロジーのもつ模倣性―ミメティックな性質が、言葉と指示対象の分離が起こる前の声の文化、そして、スタフォードが研究する18世紀の博物学全盛の時代のイメージングの世界には生きていたのではないかと想像します。

直接的に

さらにこれを重ね合わせるとどうでしょう。

ことばの呪能を託された歌は、すでに動かしがたい存在の意味を荷うものとして、客体化された。ことばは歌として形成されたとき、すでに呪能をもってみずから活動する存在となる。

日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで/土橋寛」で紹介しているように、土橋寛さんは「呪術は人間が自然物や他者を直接的にコントロールすることによって、願望を遂げようとする行為」だと述べています。説明や概念を媒介にするのではなく、「直接的にコントロールする」方法、感性を打ち震わせる方法としての呪術です。
直接的に。そう、インターフェイスを媒介とせず、直接的に。

とはいえ、声として発せられることばにのみ、呪的な力があったわけではないだろうとも想像します。
書かれた文字であっても、それが、印刷技術による複製―ディストリビューション!―を前提とせず、原稿用紙という道具もなかった時代の手書き文字であれば、発せられることば同様の呪的性格を帯びていただろうと思います。

感性の次元で、生と直接交流可能なことばの時代があったのだろう、と。

本というメディア

それでも、本という活字メディアに僕は強く心をひかれます。それはきっと本が松岡さんがこう書くようなメディアだからでしょう。

一冊の本に出会って読書するということは、大きな歴史が続行してきてくれた「意味の市場」でそのような体験を再現し、再生し、また創造していくということなんですね。本はそのためのパッケージ・メディアです。
松岡正剛『多読術』

再現というよりは追体験かなと思います。

過去にその体験をした人との直接的な交流をする。
それは文字で書かれた指示対象を説明的・概念的に理解することとは違うはずです。

もちろん、インターネットアーカイブをピンポイントで検索するのとはまったく違う。検索ではなく、感性的な交流によって情報に接することが求められるのではないでしょうか?

   

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