企て。

計画、企画、デザイン、あるいは、「企て」。

理性的に物を作りだすとき、人はまず計画を練り、それからこの計画を実行していく。バタイユが多用した哲学用語によればこの計画は「企て」となり、その実行は「行動」となる。

しかし、この「企て」が、人間の生の邪魔をします。

時間という観点に立てば、「企て」も「行動」も物が作りだされる未来の時点を第一に重視している。人は誰しも現在時を生きるのだが「企て」に従って「行動」しているときには、物の産出という未来時に設定された目的すなわち「企て」と「行動」の目的に意識を奪われている。現在にありながら現在を生きていないのだ。

「企て」が人びとの「行動」を未来の目的につなぎとめることで、現在時における人の生から「行動」を意識を切り離してしまう。

『デザイン思考の仕事術』という、デザイン=企てに関する本を書きながら、同時に、そこに文化だとか生だとかいうことをキーワードとして盛り込んでもいるがゆえに、その最後に僕が「デザインしすぎない」という断章を置かざるをえなかった理由がここにあります。



現在にありながら現在を生きていない

僕は「デザインしすぎない」という断章で、こう書かざるをえませんでした。

しかし、デザインしすぎてもいけないのだと僕は思います。自分のまわりが固定された人工物ばかりだと、人間自身が変化するものだということを僕らは忘れてしまいがちです。自分自身まで固定してしまい、自分の固定観念の外に出られなくなる。そうなってしまうともはやデザインすることもできなくなります。

さらに続けて「どこかにデザインされていない自然のままの状態を残すこと、人間によって固定されておらず勝手に変化していくものを残すことが必要だと思います」と書いているのは、まさに「企て」を未来時へと人を執着させることによって人が現在時を生きることができなくなってしまうと考えるバタイユと似た思いを常に「デザイン」というものに対して感じているからです。

連鎖の外にでる

そうはいっても「デザイン思考の仕事術」と題した本を書いている以上、もちろん「デザイン」そのものを単純に否定しているわけではありません。

バタイユは、多くの近代人のように「企て」に使われるのではなく、つまり無自覚に「企て」に従って「企て」の連鎖に縛られるのではなく(事業で得た収益をまた事業に投資し、その収益をまた新たな事業につぎこんで…)、「企て」を使用して「企て」の外へ出ていく。「内的体験の原則―企てによって企ての領域から出ていくこと」(バタイユ著『内的体験』第2部「刑苦」)。

「外に出る」ということばを、僕は今回の『デザイン思考の仕事術』のなかで何度繰り返したかわかりません。とにかく未来をデザインすることや問題解決としてのデザインというものに縛られてはいけないと思っています。

ただ、そのためにはとても逆説的ではありますが、バタイユが「企てによって企ての領域から出ていく」のだというように、デザインによって未来を固定化することで現在時をも同時に固定化しようとする安定への志向性をもったデザインそのものの連鎖の外へと出ていく必要があると考えているのです。

『デザイン思考の仕事術』の続編としての『バタイユ』/バタイユ

今回はビジネス書という建前上、そこまでつっこんだ話はしていません。
最後の「おわりに」ですこし触れている程度です。

だからこそ、ぜひ僕の『デザイン思考の仕事術』の続編として、酒井健さんの『バタイユ』やバタイユ自身の著作を読まれる方が何人かでもいれば非常にありがたく思います。

そのためにも僕らはデザインしすぎないデザインというものを今後考えていく必要が確実にあります。それにはひとりひとりが自分の枠組みの外に出て、旅をすることの重要性を認識し、実行することが必要なのでしょう。

そう。このことばの先に、バタイユが待っています。

 

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