身体としての書物/今福龍太

『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書き終えたばかり(しかも発売前)ですが、今度はインターフェイスに関する本を書きたいなと思っていて、構想を練りはじめています

インターフェイスといっても、いわゆるユーザーインターフェイスという狭い範囲の話ではありません。ましてやGUIだけについて書きたいわけではありません。
文字や本、絵画、それから食器やこれまで歴史的に登場した民具なども含めた、もっと広い意味での人間と外界とのインターフェイスについて書くことで、現在のユーザーインターフェイス(GUIもTUIも含めて)を超えたインターフェイスの可能性を開くことができると考えています。それは白川静さんの文字学や宮本常一さんらの民具の研究、そして、バタイユの「非-知」、ベンヤミンの「幼年期」なども取り込む形でのインターフェイス論になるだろうと思います。
そうしたインターフェイス論を書く必要がありそうだなと考えていて、なんとなく構想も頭にイメージできつつあります。



当然、そうした思考をまとめていくためには、『身体としての書物』のなかで「書物とは、ただ単にそこから必要な情報や教養を得るための便利な道具ではない」と書く今福龍太さんのように、書物というインターフェイスについても考えなくてはなりません。「本とは、必ずしも簡単にデータとして利用したりコンテンツとして消費したりすることのできるメディアではない、という点こそが重要なのです」ということばを念頭におきつつ、「本と自分との関係はもっと多様なものでなければならないし、本来そこには誰にとってもより自由で豊かで創造的な、柔軟性にみちた関係があった」という地点に立ち返る必要があります。

所有される本、読まれる本

この本は、今福さんが東京外国語大学で行ったゼミナール「身体としての書物」の講義録をもとにしています。
そのゼミナールでは、今福さんは学生に本をつくらせたり、師であった山口昌男さんの10,000冊の蔵書の整理を学生に立ち会わせたりしています。

10,000冊の蔵書というと、「一生のうちに、よくそれだけの本を読みましたね」という常識的な反応が必ずあるといいます。そうした反応に対して今福さんは「本というものは、所有した以上は必ずすべて読まなければならないというものではありません」といっています。

本を買って持っておくことは、かならずしもただちにそれを読むという行為には結びつきません。手に入れた本をすぐには読まないで書棚に収め、やがてその存在を忘れてしまう。けれどもその忘れられた本が、何十年も後に再発見されて自分の思考に突然親密に語りかけてくる、ということがしばしばあります。

本を所有することと、本を読むことは別物です。さらにいえば、所有していても、書棚にみえるように並べること、書庫にしまっておくこと、所有していることを記憶から忘れることも、また別物です。本と自分との多様性の一部分が、こうした違いにあらわれています。本といかなる関係性をもつかということは場や作法の問題に関わっていて、場や作法が多様な違いを生み出します。


ヒューマンインターフェイスとしての本

本という物理的な形態のメディアがこの違いを可能にしてくれているのだと思います。

それはインターネットに情報をアーカイブする場合に捨象されてしまう違いです。本を所有することは、ブックマークやリブログでデータやコンテンツを記録しておくこととは別物です。
本というメディアがもっていた人間にとって有意な違いを捨象してしまっているという点に、インターネットのアーカイブに対するヒューマンインターフェイスの問題がそこにあります。

ありえない不老不死の神話に背を向けるその有限性において、書物は人間の生命と身体の条件としての有限性に直に結ばれた。むしりヴァーチュアルなアーカイブに組み込まれ、ディジタルなデータ記号として永遠の生命を得たかに見える本=テキストのほうが、死や消滅への想像力を失うことで、かえって知性の求める尊厳と謙虚さから遠ざかっていくように私には思われる。

前に「本は「欲しい」という前に買え」というエントリーで「本に興味をもつ目、本を選ぶ目って、その人の好奇心の広さ・深さであり、その人の問題意識の広さ・深さなわけです」と書きました。これは実は反転することもできます。

人の好奇心の広さ・深さ、問題意識の広さ・深さは、本を所有しようという意欲や実際に所有する本そのものによって育まれる、と。

これが現在のインターフェイスをもつ、インターネットのアーカイブにはそのままあてはめられないということが問題だと思っています。そして、それはインターフェイスの問題であり、そのインターフェイスに問題があることに気づかずにいる多くのインターフェイスデザイナーの問題です。

こうした点を本をはじめとする伝統的なインターフェイスについて、あらためて考え直すことで問題を解決していかなくてはいけない時期だろうと思っています。

認識→探究→信頼

「身体としての書物」といてテーマで全14回の講義の形をとって進められる本書では、ボルヘスの「砂の本」の無限のページをイメージさせる本、おなじくボルヘスの「バベルの図書館」の世界全体と関連を想起させる有限だが膨大な大きさをもつ図書館、ジャベスの『書物への回帰』であつかわれる砂漠としての本、書き込みそれ自体を可能にする砂漠的身体性をもった本、そして、ベンヤミンの私的な記憶と社会の記憶を重ねる思想を経て浮かび上がってくる文字や本の身体性について論考が繰り広げられます。

そのなかでベンヤミンがみた文字の身体性と読み書き(リテラシー)を身につける幼年期の段階、そして、社会の成長との関連性についてすこしだけ紹介しておきます。

クラウス・クリッペンドルフは『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』において、個人の使用におけるコンテキストでの、物の利用しやすさを人間が獲得するプロセスを、「認識」→「探究」→「信頼」という3つの段階に分けています。

道具のユーザビリティは人間の行為→感覚→意味付けの繰り返しの認知的プロセスをまわしながら、認識できるだけの段階から物を信頼して使用できる段階まで、ステップを経て獲得されます。
認識の段階では人は物の物理的側面に着目して、それが何かを把握しようとする。それが信頼の段階ではもはや物の物理的側面は背後に消えて、あたかもそれが自分の身体の一部あるいは思考の一部のように、その物をほとんど意識することなく利用するようになる。
呼吸をするのをいちいち意識していたら息苦しくなるのとおなじように、道具の物性をいちいち意識していたら物をスムーズに使うことはできないのです。

幼児が文字言語の操作方法を獲得する

それと似たような見方を、ベンヤミンは文字や本に対して、私的な幼年時代の記憶へと遡行しながら考察しているのです。今福さんはこんな風にまとめています。

子どもが忘れることができないというのは、かれらがまだ完全に覚えることができないことの裏返しです。(中略)人間には「覚える」というプロセスが完成される決定的な段階がある。それを「知」の獲得というふうに言い換えてもいいと思います。ある時期に言語の物質性や模倣性との決定的な別れが起こって、記号的な文字言語を自由に操作できるようになる段階が人間に訪れる。これが「覚える能力」の完成の瞬間で、そこからまさに「忘れる」というプロセスもまた同時にはじまるわけです。

幼児は言語を物質性や模倣性において認識しはじめましが、徐々に文字の世界に慣れてくると、その「記号的な文字言語を自由に操作できるように」なります。物質としての文字が繰り返しの模倣=トレース(探究)を経て、その意味内容にアクセス可能なインターフェイス性(信頼)を獲得するのです。

「言葉」のなかには、言語の模倣的な領域と、言語の記号的領域とが存在します。後者の記号的な領域は、音素を単位とする抽象化された恣意性によって成立している。そして言語はこの記号領域に「言葉」が着地することによって体系化され、このときから、たとえば踊りを通じてマテリアルな世界と交感する身体性に見られたような人間の「模倣の能力」は縮減される。

いまのインターフェイスデザインの問題は、この「模倣」から「記号的操作」へという段階が軽視されている点にあると思います。

多様な関係性の基盤をいかにデザインするか

文字や本というメディア自体がいつでも信頼を失い、探究や認識の対象に立ち戻る可能性が忘れられていて、あたかも一度操作方法を記号的―マニュアル的―に理解すれば、操作可能となりユーザビリティが確保されるという前提に立っていることが問題です。

そうではなく文字も本などのメディアもいつでも人間にとって物質性の認識へと立ち戻る可能性を、インターフェイスのうちに内包してあげなくてはならないと思います。なぜなら、それ自体が知の獲得のプロセスだからであり、そのプロセスを何度でも経験可能にすること自体に、メディアと人間の多様な関係性が生まれる基盤があるからです。

この多様な関係性の基盤をいかにデザインするか(あるいは『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』の最後に書いたように「デザインしすぎない」か)。
それが本に限らずあらゆる人工物をデザインする上での今後の課題であり、人間と環境の関係性あるいは人間そのものの再定義に関わる課題だと思っています。



関連エントリー

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック