自我という魔術

昔からこういう記述には惹かれてしまう性質です。

言葉は私たちの内部で性をほとんどまるごと吸い上げてしまう―この生のほとんど小枝の切れ端までこの蟻たち(言葉のことだ)のせっせと休みなくはたらく群れによって捕えられ、吸い上げられ、積み上げられてしまう。だがそれでも我々の内部には、無言のまま隠れていて捕えがたい部分が残っているのだ。言葉の世界、論理的言語の世界では、この部分は無視されている。

言葉でなにかを理解する、知るということは、永遠にその対象から遠ざかってしまうということになる。『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』が「バラバラの情報が散らばった世界で」という断章からはじまっているのも、そこに目を向けてもらうことができたら、と思ったからです。



自我という魔術

ひらがなで、ほうほう。」で、僕はこう書きました。

なまえ。なまえ。なまえ。

なまえなんか重要じゃないのに。

なまえがつくとうごきが止まってしまう。
かたまってしまう。

以前、「意味を超えたところにある何か」というエントリーでも書きましたが、岡野玲子さんのマンガ『陰陽師』の1巻では、名前によって相手を縛り上げる呪の話がでてきます。怨霊に、自身の名前を教えた源博雅が怨霊に操られてしまうことになるのに対し、陰陽師の安倍晴明は偽の名前を名乗ったために、その力から逃れることができたという話です。

まさにそれとおなじで名前をつうじて意識のなかで統一された自我が、自分を縛ることになる。生物としての人間の多様性は捨象され、意識に捕えられた部分のみが自分自身であるかのような錯覚が起る。

錯覚というよりもむしろ魔術です。
言語の呪的な力を忘れた―甘くみるようになった―近代以降は、すべての人間が自我という魔術にかかっています。

自我は愛さない

バタイユという人は、その自我をとことん嫌った人です。

『内的体験―無神学大全』には、こんなことばがあります。

私は、雨、
雷、
泥、
水の広大な広がり、
大地の底を愛する。
だが自我は愛さない。
大地の底で
おお、私の墓穴よ!
私を私から解き放ってくれ、
私はもう私でありたくないのだ。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験―無神学大全』

別にバタイユは普通の意味で、自分が嫌いだったわけではありません。
ただ、自分を小さく規定しようとする「自我」には抗った。

自我とは、名前であり、言葉であり、意識です。それらは人間のなかにまだ「無言のまま隠れていて捕えがたい部分」があるのを人間に忘れさせ、人間を自我という魔術のとりこにしてしまう。自我という牢にとじこめてしまう。

知の彼方

それをバタイユは嫌った。それよりも「無言のまま隠れていて捕えがたい部分」としての「夜」「非―知」を追求した人です。言葉の力を警戒しつつ、隠れていてみえにくい物の力をどうにか見ようとした人です。

バタイユは、知を愛した人だ。知すなわち知る行為とその成果の知識とを大切にし尊重した人だ。そのうえで彼は知の彼方をめざした。
知の彼方とは、知が愛してこなかったもののことである。どのようにしても知ることができなかったために、知が愛してこなかったもののことである。

僕がバタイユに惹かれるのは、知が愛さずにいる知の彼方を目指そうとする、こうした姿勢です。

バタイユの知の彼方を目指した、そのベクトルは自我の束縛を超えて、自分自身の外に向かうことにほかなりません。知ることを拒否するのではなく、知ることで未知に気づき、その先にある非―知を感じとる

もちろん、それは単純な知の否定、ことばや自我の否定ではありません。知やことば、そして自我の呪力を鋭敏に感じとっているからこそ、その力の強さを認めているからこそ、その力から解放されることを懇願するのです。
「私を私から解き放ってくれ」というバタイユの懇願は、まさに知の彼方を目指すことによってのみ実現の可能性が開かれるものでしょう。

単なる知を超えた、こういう鋭敏な感覚に僕は惹かれるのです。

人間は永遠に堕ちぬくことはできない

もちろん、バタイユのようなこうした方向性を突き詰めきれるほど、人間はタフではありません。

それは坂口安吾が『堕落論』において、

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
坂口安吾『堕落論』

と書いたのとおなじで、バタイユが懇願したように、知の彼方、自我の外側へと「堕ちぬくことはできない」だろう。

バタイユが『内的体験』を書いたのが第二次大戦中なら、安吾が『堕落論』を書いたのは第二次大戦後です。ほぼ同時代に、二人の人間がおなじようなことを考えている。安吾的なものにも僕は昔から惹かれる傾向があります。

人間は堕ち抜くことはできないし、バタイユのいう「夜」「非―知」に辿りつくこともできない。それはニーチェが狂気に沈んだのと同様に、精神的にも肉体的にも人間を破壊するのだろうと感じます。

だが、それを望むか、そんなことすら気づかずに「言葉の世界、論理的言語の世界」で、自我に捕われて生きるか。それを課題として捉えられるかどうかは大事なことではないかと思っています。

   

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