逆に、どうにかしなくてはいけないことなのだとしたら、どうしたらいいかなどと考えているひまがあったら、とっととやったほうがいい。
どうも考えるということを誤解している人が多いのではないか?
実行のともなわない思考はただの時間の浪費でしかない、というのに。
思考即行動
頭と身体がバラバラです。自分の身体を見失ってしまっています。悪い頭にひっぱられて、優秀な身体まで本来の能力をどんどん劣化させてしまっています。
本当にわかりたければ、わかる前にいわれたとおりに自分でやってみて自分を事例にするしかありません。やってみて何も変わらなければわかっていないということですし、やってみて何かが変わればわかったということです。たとえ、それが理論であってもわかれば、行動が変わってしまうのが本当の「わかる」です。
思考とは、即行動です。
意味とは、即使用です。
哲学とは、生きられた人生あるいは生活そのものです。
知る=変わる
それがわからずに、方法依存症者は方法のコレクションにいそしんでいます。知るということは本来、それを得る前と得た後では自分自身を変えてしまうものです。なんとなく体調がすぐれないなと思っていたときに体温をはかって熱があるのがわかると急に具合がわるくなったり、占いでわるい運勢だとわかると途端に慎重になったり。知るということは本来そうしたリスクを背負ったものです。頭ではわかったけれど、具体的にどうしたらいいかわからないというのはわかったことになりません。わかるというのはその時点で自分が変わることをいうのです。カエルが飛び出してきたら逃げるのと同じように、何かがわかったら身体的な行動も頭のなかの認識も変化するものです。
方法を知ることが大事じゃありません。頭でわかっていなくても、ようは身体が動けばいいのです。だから、知るのではなく、身につける。理解するのではなく、できるようになることです。
Amazonの『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』の「内容紹介」には、「誰でも再現可能なクリエイティブ仕事術」なんて書いてありますが、あれは過剰広告です。
僕は「誰でも再現可能」なんて言ってはいなくて、「誰でも身につけられる」と言っている。
身につけるということは、とうぜん、個人によって身体差がでる。つまり、それは再現ではなく、模倣を経たカスタマイズです。母型から個別の形をつくる行為です。ようするに、そこには正解はない。何か正解があると思うから間違うのです。身体が動かなくなって、よけいなことを考え始めるのです。
「文字の官能性、書物としての身体」で長いスケッチをしたように、本を読むのに答えを期待してはいけないし、理論に唯一者/絶対者を求めるのもお門違いです。テキストは本のボディの上で官能的に滲みつつ、さまざまな解釈を待っているし、神は依り代から依り代へとうるろいながらおもかげを残すものです。
そのうつろいゆく様に身を寄せ、耳を傾けながら、自らを覆った堅い鎧を脱いで、自らの輪郭をもまわりの環境へと滲みださせなくてはいけない。
それを本来はコミュニケーションと呼ぶのです。A地点からB地点へ、データが通信・伝達されることがコミュニケーションではない。自らの輪郭を滲ませたもの同士が官能的に、シャーマニックに絡み合う状態をコミュニケーションと呼ぶのです。
数寄スクリーニング
理論が目の前にあれば、それをそのとおり猿真似してみればいいのです。その猿真似こそが個の形を生む。意味を生む。個々の生きざまを生む。そうして現実化された生き方に正解も間違いもありません。あるとしたら、自分自身の好みにあうか、他人の好みにあうかでしょう。それにはまず個々人が自分の生活のなかで自分自身の好みを探っていくことが大切です。好みというのは人が物事を判断する際のバイアスです。好き嫌いが物事の理解にバイアスをかける。加重をかけます。それによって何を選択するか、何を拒むかが決まります。犬やカエルが嫌いというのもバイアスです。そのバイアスがあるから逃げるという具合に身体が動く。自分のバイアスを知ることで、他人のバイアスにも目が向くようになります。何が人を動かしているのかを考えられるようになる。
自分の好みをスクリーニングする。好き/数寄スクリーニングです。
ここでもまた好みとは嗜好性など心理的なものとは違うことを指摘しておかなくてはいけません。意味が即使用であるように、好みもまた反射的行為です。それはもはや痺れや震えに近い。内は外になり、外は内になる。インタラクティブというよりも相互依存的接合状態。それは嗜好性などとは比べ物にならないほど早い。もちろん、どうしたらいい?などという悠長に戸惑っている余裕など微塵もありません。
そうした数寄をスクリーニングする。何によって自分は動くのか?です。
そうであればこそ、インターネットをいくら検索してみても、あなたの好みは見つかりません(好みに思えるもののデータなら見つかっても)。
好みのスクリーニングには、調べものではなく、実体験が必要です。
さぁ、オフラインにして自分をスクリーニングするための旅にでましょう。
いざ、奥の細道へ。
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