文字の官能性、書物としての身体

今回は『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』の出版にあたり、書籍のデザインということにあらためて考える機会がありました。

そんなきっかけもあって書籍のデザインや以前から興味をもっている文字というものの力というものに関してもうすこし考えをすすめるためのリソースがほしいなと思い、今福龍太さんの『身体としての書物』と、鈴木一誌さんの『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』を平行して読んでいます。



書物とは、文字とは

そもそも、本=書物、文字とはいったい人間にとって何なんでしょう?

書物とは、ただ単にそこから必要な情報や教養を得るための便利な道具ではない

と今福さんはいい、

文字をコミュニケーションの道具だと断定しきれないなにか、払拭できないなにものかが、「あるがまますべて」や「文化」となって登場してくる。ことばや文字をめぐる不安を引き受けよう。

と鈴木さんはいいます。

書物は単なるデータや知識が詰め込まれたメディアでなく、独自の身体=ボディをもち、文字もまた単なるコミュニケーション、伝達の道具ではなく、そこに潜む不安も含めたあるがままを引き受けざるをえない文化として存在する。そこにデジタルな思考が捨象してしまうアナログなノイズ、ズレが存在することを今福さんも鈴木さんも見落としません。

例えば、それは松岡正剛さんが『外は、良寛。』で、

文字というものは、もちろん言葉を情報保存するためにつくられた記号でわるわけですが、文字がコミュニケーションの維持・強化・洗練から離れて、書としてリリースされていくときには、文字が犯してきたコミュニケーションの中での罪を捨てるためにあるようなところもあります。

と書いたことにもつながってくるでしょうし、「かつての生活には匂いがありました。」からはじまる新著で、僕が、

おもかげから記録(ログ)へ。類似(アナログ)から離散(デジタル)へ。五感によってつながっていた世界はいまやバラバラの情報として離散し、検索エンジンなしには必要な情報ひとつ手に入れられない世界になりつつあります。それを僕らは情報過多の世界と呼んでいます。

と書いたこととも重なってきます。

このあたりにピンとこないと、情報やコミュニケーション、発想やアイデア、そして、それらのためのデザインやデザインを通じて情報やコミュニケーションを扱う人びとの能力といったことがわからないだろうと思います。
その意味で、僕らは、もういちど、書物や文字というものの姿をしっかりと見直す必要がある。僕はそう思っています。

書籍の官能

書籍も、文字も、本当はもっと身体的で、芳しさや艶めかしさをもっているものだし、官能的であり呪的なものだと思います。

例えば、今福さんは『身体としての書物』のなかで、タイトルにもなっている「身体としての書物」ということを考えるにあたり、身体を英語のボディへと翻訳し、それをワイン用語のボディへと変換してつなげることで、さらにボディに対応する日本語を探りながら「コク」へと辿りついています。そして、そのコクは漢字で書けば「濃く」であり、それが古語の「濃し」に由来する語であることを指摘したうえで、こう語っています。

「濃し」というのは、もともと液体などの濃度を指す言葉ではありませんでした。『源氏物語』には、この言葉が頻繁に登場します。そこで「濃し」は人間関係の深い交わり、つまり男女の情愛や肉体関係の親密さを意味していたようです。つまり「濃し」という言葉は、性愛にかかわるひじょうに官能的・肉体的な内実をもった形容詞として使われていたのです。

肉体的、官能的であるというのは重要です。

今福さんは「本とは、必ずしも簡単にデータとして利用したりコンテンツとして消費したりすることのできるメディアではない、という点こそが重要」と述べ、物質的な触感を通じた知覚や認識によってしか特定の言葉を探しだすことができない書物の検索性の低さそのものが、物事を思考するのに大切な認知メカニズムであることを指摘しています。
それは性愛的な手続きにおいても、特定のパーツや特定のシーンだけを簡単に消費することはむずかしいことに似ています。それを望めば、お金を払ってプロの方のお世話になるしかありませんが、それは「男女の情愛や肉体関係の親密さ」とは別の次元にある。Googleなどによる検索性の高さと、書籍のページを一枚一枚めくってひとつの語を探しだす際の検索性の低さの関係は、まさにプロの方にお願いしたりデジタルデータで手っ取り早く済ませたりするのと、リアルで男女の情愛や肉体関係をもて面倒な手続きを踏むのとの違いに相当すると思ってよいと思います。

純化が捨象しているもの

一方で、鈴木さんは文字そのものが内包している観念のズレに着目しています。

『ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン』では、中上健次さんの『奇蹟』の、手書き原稿、単行本の紙面、文庫本の紙面が並置され、おなじテキストが紙面のデザインによって大きく印象が変わることを示しています。

そのうえで、「読めさえすればよい」という感覚で、「無機的にくまれている」文庫版のページのたたずまいを嘆いています。
もちろん、それは中上健次さんの『奇蹟』の文庫版に固有の問題ではなく、すべての読めさえすればよいという感覚で無機的に組まれた文庫版すべての紙面に共通する嘆きです。

『奇蹟』の文庫紙面は、視覚的な均質性を獲得している。長い歴史の結果、私たちはこの紙面に辿りついた。オリジナル原稿がもっているノイズを削ぎおとし、均質な紙面を手に入れた。なんのためか。テクストのなかの時間や空間が、読者の読書という実践の場でのみ受容されるためである。読書の純化という事態は、人間中心主義が行きついた地点でもあるだろう。だが、置き去りにしたものの余りの多さに不安をもつ。くっきりとしたものも、よく見ればその輪郭には滲みがある。

この「滲み」を排除した純化されたものを、人はユーザビリティが優れたものだと捉える価値観が現代の社会を覆っています。わかりやすい、使いやすい、純化された体験を望むことを当然としています。

ただ、それは先の、異性との情愛をはぐくむために必要な面倒な手続きをはぶいて、手っ取り早くプロの方のお世話になろうという発想と変わりありません。さまざまなすれ違いや衝突を経て、ようやく辿りつき、しかも、辿りついてなお、いつその関係が壊れるかといった不安を抱えた男女の関係のあやうさが、お金を払っての契約関係によって手に入れる安心な関係にはありません。

「秩序」がそこに実現できているとだれが判定するのか。正解はどこにもないのだろう。20世紀のデザインは、というよりデザインはきわめて20世紀的なものだが、いつも正解を求めてきた。可読性や視認性に情報量である。大衆性や公共性、訴求力という価値基準もある。結局は経済効果に換算された数字が「客観的」な基準になる。

数字で表現可能なデジタルなスペック、データが「客観的」な基準になる。

ただ、現実には、その「客観的」な基準からははみ出してしまうものが、通常の男女関係あるいは人間関係には数多くあるはずです。にもかかわらず、それを捨象して純化して、○分で○円という「客観的」な基準で示される安心、安全が提供される状態を「秩序」と判定してしまう傾向が現代の社会にははびこっています
そして、基準を「客観的」にして外に出すことによって、自らが苦心して自らの基準をつくりつつ決断をする能力を失っていっていることに気づいてもいません。まさに昨日の「もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」で書いた日本的な「人間依存性」が失われて、西洋的な「人間非依存性」に依存しきった状態ができてしまっています。

書物としての身体

鈴木さんは、少し前に「芹沢銈介の文字絵・讃/杉浦康平」を紹介した、杉浦康平さんのアシスタントを15年間つとめた後、独立した人です。

先に書物や文字は、官能的であると同時に、呪的であると書きましたが、例えば、文字の呪的な様相は、杉浦さんが『文字の美・文字の力』で紹介している、以下のような文身(イレズミ)に見ることができます。



漢字―生い立ちとその背景/白川静」でも紹介したように、そもそも「文」という文字そのものが、文身(イレズミ)を意味する字であり、人の胸部に心臓の形の文身を加えた象形です。



文身の美しさを文章という。文は人の立つ形の胸部に、心字形やV字形やXなどを加えるのである。章は文身を加える辛(はり)の先の部分に、墨だまりのある形である。

古代の人びとは、こうした文身として直接文字を身にまとうことで文字のもつ呪力、ことばのもつ呪力を身につけたのです。そこには「観念連合、類感呪術をつかった発想法・編集術」で紹介したような、対象(例えば、太陽、青々と茂る木々、etc.)を模倣したり、ことばや文字にすることで、対象のもつ力を獲得できると考える共感呪術に対する信仰があります。

ただし、こうした古代人が共感呪術的思考を通じて文字に呪力をみいだした考え方は、文身が着物の上の文字に変わってもすぐに衰えたわけではありません。



「かまわぬ」と判じる、しゃれのめした言葉遊び。言論の自由を厳しく規制された町人たちの反骨心・諧謔心をかきたてて、着物や浴衣に染めぬかれ、江戸中で大流行したという。

もちろん、こうした江戸期に流行した、文字を染めぬいたり刺繍で記したりというワザは、昭和にはいっても芹沢銈介さんのような方が引き継いでいました。



まさに「文字の力が宿ったメディアとしての身体」「書物としての身体」です。文字がのるメディアとしての身体や衣服は、単なるコミュニケーション、通信のために存在するわけではありません。表面に記される文字だけでなく、それがのったメディアとしてのボディそのものが、文字のもつ魅力を伝える力を増幅するものとしてはたらいています。
考えてみれば、メディアという語自体、そもそもが神の声を自分の身体を通じて伝える巫女のことを指していたのですから。

おもかげの喪失

こうした身体性や、官能性、呪的な力をもっていた文字や情報から、それらが失われてしまったのは、昨日の「もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」でも触れたように、1960年代以降のことではないでしょうか。

見誤ってはならないのは、ただ一般に人や情報が動くようになったから「観光」が重要になったのではない。とくに地球規模で見たとき、人と情報の動きには明らかな方向性がある。人が動く方向には、高開発社会の強者ないし富める者の、弱者ないし貧しい者の低開発地域への観光と、その逆の流れである出稼ぎ、移民、そして弱者の側から強者への情報の流れ、というよりは強者の側からの吸い上げ(学術調査、マスメディアの取材、栽培食物の遺伝子情報の探索など)があり、流れの方向の格差は、1960年代以降一層はなはだしくなってきたといえる。

情報が純化され、数値的に比較されランキング可能なものとなった途端、それは高きから低きに、流れの方向性を固定してしまったのではないでしょうか?

いまや人びとのアイデンティティ=らしさは誰が袖のような色や香がはかなくたゆたうおもかげではなくなり、色も香もない無機質なデータと化したプロフィールとなってしまっています。人間のプロフィールだけではありません。あらゆる物事が匂いも触感も感じさせない機械的な情報に取って代わられています。かつての見立ての手法が五感をともなうイメージの連鎖を引き起こしたようには、グーグル検索は人びとの連想(アナロジー)を喚起してはくれません。人は梅の香に恋心を感じたかつてのように、現在自分を取り巻く多くの情報から身体が自然と動くような動機(モチベーション)を感じとれなくなってしまっています。

文字が身体から離れてしまい、書物のもつ官能的な身体性も、均質で無機質なモニター上の表示にとって換わられています。それは安全で間違いはないのかもしれませんが、いつ間違いや関係の崩壊が起こるかわからないといった恋愛・性愛のあやうさを失ってしまっています。

文字や書物、そして、情報とそれを通じて思考し生きる人間の認知能力というものを、ここで書いてきたような視点に立って、考え直さないといけない時期なのではないでしょうか?

   

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