もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造

「モノとワザ」。書店でこのキーワードに惹かれて、僕はこの本を買いました。
買って読んでみて、買ってよかったなーと思いました。僕が触れてみたいと思っていたことが、この本には書かれていたから。

この本の著者、川田順造さんは文化人類学の大家、クロード・レヴィ=ストロースに師事した文化人類学者です。この本では、西アフリカ、フランス、そして、日本という3つの地域を「文化の三角測量」をしながら、モノとワザの関係に潜む「身体技法」に着目し、グローバリズムや情報資本主義によって失われつつある、各地域の文化に根差したモノとワザに焦点を充てています

文化とその地域のモノとワザの関係性ということでいえば、例えば、著者の師でもあり、日本文化に深い愛着と知識をもったレヴィ=ストロースは、西洋と日本の身体の使い方や文化の特徴を「遠心性」と「求心性」という対比でとらえています。

ノコギリをとってみても、西洋の押して切るノコギリと、日本の引いて切るノコギリの対比がある。「塩の道/宮本常一」でも紹介したように、日本の道具である鍬は引いて使います。船の櫂も腰を入れて引く。



道具のデザインに関してだけではありません。フランス人が「タバコを買いに行く」というに対して、日本人は「タバコを買いに行って来る」という。レヴィ=ストロースはこうした視点に立って、西洋の外に向かうベクトルと、日本の内に向かうベクトルを対比させています。

西洋の「二重の意味での人間非依存性」と日本の「二重の意味での人間依存性」

著者は、師であるレヴィ=ストロースの「遠心性」と「求心性」をさらに拡張する形で、西洋と日本の労働生産性とそれに基づく道具に対する価値観の違いを、西洋の「二重の意味での人間非依存性」と日本の「二重の意味での人間依存性」という形で対比させています。

以下のような対比です。

西洋の「二重の意味での人間非依存性」
  1. 個々の人間の巧みさに頼らず、誰がやっても同じよい結果が得られるように道具を工夫する
  2. できるだけ人間の力を使わず、畜力や風水力を利用してより大きな結果を得ようとする
日本の「二重の意味での人間依存性」
  1. 簡単な道具を人間の巧みさで多目的に効率よく使いこなす
  2. よりよい結果を得るために惜しみなく人力を投入する

1つ目の道具に関する対比では、ワザあるいは技術を道具として外化するか/外化は最小限に抑えて個々の身体に宿るワザを重視するかの違いが浮かびあがります。2つ目では、そうした道具やワザを用いて行う作業のエネルギーを人以外のものに頼るか/人の力の投入でまかなうかの違いが浮かんでくる。
その2つの視点の対比において、西洋における人間非依存性と日本の人間依存性の相違がみられることを、さまざまな例をもって指摘しているのが本書です。

もうひとつの日本

もちろん、先にも示した通り、単純に西洋と日本を対比するのではなく、西アフリカというもうひとつの参照点を置いて「文化の三角測量」を行っています。
また、タイトルに「もうひとつの日本」とあるように、日本もひとつの統一された文化としてみるのではなく、稲作を中心とした弥生文化と焼畑や狩猟を中心とした縄文文化の相違にも着目しています。

このエッセーに、私が「もうひとつの日本への旅」という題をつけたのも、これまでの日本の歴史で、政治の中心からも遠く、とかく辺境の野蛮な文化として貶められてきた、ナラ林地帯の基層文化、縄文やアイヌの文化とだけでなく、アジア・太平洋地域の諸文化とも連続性をもった文化の深層に、未来へ向かっての日本の、というより人間の、隠れた可能性を探ってみたいという思いを、東北とくに岩手と学生時代から縁のあった私が、抱きつづけてきたためだ。

この「もうひとつの日本」という視点は、宮本常一さんの『日本文化の形成』や、それに影響を受けている網野善彦さんの『東と西の語る日本の歴史』にもつながる視点です。

この2つの本で、宮本さんは「粛慎の長老のいう海の彼方の顔つきの異なる人びとというのは、北方の縄文文化人たちであったと思われるが、中央に武力統一によって大和朝廷が成立してからは関東以南への移動はむずかしくなり、しかも農耕をほとんどおこなわないことによって、農耕を中心とする大和朝廷との間に次第に距離を持つようになったと見られる。だがそのことによって、粛慎などとの間にはかえって密接な交流が進んでいったと考えられる。狩猟や漁撈を主要な生活手段とする者はどうしても交易を必要とし、その交易も民族や文化を異にする者との交易が必要であった」といい、網野さんは「そうじて、縄文時代を通じて、西日本の遺跡は貧弱であり、東日本が圧倒的に複雑・多様な文化を生み出したことは間違いない事実で、狩猟・漁撈・採集文化における東日本の優位は疑いないといえよう」とそれぞれ書いていますが、この文化の違いはたんに時間的に、狩猟や漁撈を中心とした縄文文化から稲作を中心とした弥生文化へという以降の形をとったのではなく、日本列島においては明治期にいたるまで共存していたと捉えるべきであることを、この2つの本は指摘しています。

文化とモノとワザの相互依存関係

こうした視点がこの川田さんの『もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る』という本も引き継いでいます。

川田さんは、縄文人と弥生人の身体の違いやそれにともなう道具の用い方の違いにも言及しつつ、

縄文人の子孫が、そのまま北東北人ないしアイヌではないにせよ、先に見たように、ものの運び方などにおける身体の使い方が、北東北人ないしアイヌでは、弥生人系が多く混じった西日本人と著しく違うとすると、身体そのものの形態やそれにともなう基本的運動能力ではどうなのかという問いが、当然生まれてくる。

と指摘しています。

ただ、ここで注意しなくてはいけないのは、縄文人と弥生人に明確な線引きができるわけではないという点です。いや、縄文人と弥生人だけでなく、日本人、西洋人、アフリカ人などという民族の違いも線引きが可能なわけではありません。

文化の違いや著者が本書でテーマとして扱う文化とそれにともなう身体技法、そして、ワザとモノの関係も、決して「民族」という固定した関係としてあるのではなく、社会や生活文化の変遷とともに変化する相互依存的な関係性として成立するものです。

身体技法

だからこそ、著者は消えゆく文化としての、背負い梯子などの運搬具、猫皮三味線、和船、舟釘、カラムシ織りの布、手漉き和紙、馬をめぐる信仰や習俗、旧モシ王国の太鼓ことば、アイヌの伝統的文化などに着目し、その変わりゆくものとしてある「伝統」のワザやモノを保存・維持するためにはどうすればよいかと問うのです。
伝統とはそれが元から存在するから守るべきが価値があるというより、それがある特定の時代の人びとの生活において苦労の結果生まれてきたものであり、かつそれが簡単に消えゆくものであるからこそ守るべき価値があるのでしょう。

それは「簡単な道具を人間の巧みさで多目的に効率よく使いこなす」という日本の「二重の意味での人間依存性」においてはさらに問題となります。なぜなら、それはモノとして残るような形で外化されていないから。文化は常にモノとワザの相互依存的な関係として、無形物の形で存在するからです。それは、旧モシ王国の太鼓ことば(太鼓によって王国の物語をかたる)と同様に、西洋的な文字文化に対して、無文字文化として存在してあるのですから。

川田さんがモノとワザの関係において、個々の文化における「身体技法」を重視するのもそうした意味があります。それは語られるもの、文字化可能なもの、身体の外に外化できるものとしてあるのではなく、個の身体という非常にローカルなものに宿るものであるからです。

何が「私」のなかにあるのか?

僕が、この本を読みながら胸につまされたのは次の一文です。

私は、観光というかたちでアイヌ文化の存続をはかっているアイヌ民族博物館を訪れながら、そしてこの文章を書きながら、アイヌに対して「私」はいったい何であるのか、アイヌと共通の祖先をもった何分の一かの縄文人の末裔であるのか、アイヌにとってのシサム「隣人」であるのか、アイヌも含まれる国民国家日本の一国民としての日本人であるのかと、絶えず自問しつづけた。

ひとつ前の「日本の食糧事情のほうが「残念」」というエントリーで、「僕らは日々、自分自身のなかの一部を殺し続けながら生きているのではないか」と書いたのは、この文章にひっかかったからです。

僕らは何分の一か知らないがアイヌの末裔かもしれない。そうだとしたら、アイヌあるいは縄文文化を近代的な文化によって抹消しようとしている行為は、みずからの内の一部を抹消しているのにほかならないように思えるのです。西洋的な「二重の意味での人間非依存性」をいつの間にか引き受けながら、それまで培ってきた「二重の意味での人間依存性」に根差したモノやワザを捨てようとしている。
逆にいえば外化することもなく、自分のなかに大切に蓄積し、子孫にも引き継いでいくようなものが、「私」のなかにあるのか。あるとしたら、それは何なのか、ということを考えざるを得ません。

情報の流れの方向の格差

ところが、「個々の人間の巧みさに頼らず、誰がやっても同じよい結果が得られるように道具を工夫する」というユニバーサルデザインにもつながる西洋の「人間非依存性」はこれまでもたびたび指摘してきたように(cf.「モダンデザインの歴史をざっと概観する」)、普遍的なところを狙いつつも、その普遍性の外に出ざるをえない弱者を捨象した形でのWin-Winの創造を狙ってしまいます

それは否応なしに普遍(ユニバーサル)―特殊(パティキュラー)という図式を生み出してしまいます。誰にでも使える、誰にでもやさしいを目指すベクトルは、残酷なまでに、それでも使えない、利用が困難な人を置き去りにしてしまい、格差を生む要因となってしまうのです。

見誤ってはならないのは、ただ一般に人や情報が動くようになったから「観光」が重要になったのではない。とくに地球規模で見たとき、人と情報の動きには明らかな方向性がある。人が動く方向には、高開発社会の強者ないし富める者の、弱者ないし貧しい者の低開発地域への観光と、その逆の流れである出稼ぎ、移民、そして弱者の側から強者への情報の流れ、というよりは強者の側からの吸い上げ(学術調査、マスメディアの取材、栽培食物の遺伝子情報の探索など)があり、流れの方向の格差は、1960年代以降一層はなはだしくなってきたといえる。

いまの情報化社会、情報資本主義には明らかにこうした欠点を内部に抱え込んでしまっています。ユニバーサルに誰もがアクセス可能な情報をWeb上にアーカイブしようとすればするほど、この格差は拡大するし、強い情報への偏りは、弱い情報はその情報の元となった生活、文化そのものとともに捨象する流れをつくってしまいます。

リテラシーとオーラリティー

前に「テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか」でリテラシー(読み書き能力)重視の傾向が過多になっている点を指摘していますが、記録として外化して残るものばかりへの依存は、必ず単純な図式的な比較、格差を生み出してしまうのではないかと思います。
その一方で無文字文化的なオーラリティ(聞き語り能力)や、「人間依存性」や地域依存性の高いモノとワザとの関係を大切にしていかなければ、すべて貨幣価値で交換可能な価値のみで計算され、消費されてしまうのではないか。

そんなことを強く考えさせられた一冊です。



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