日本の食糧自給率は40%です。
食料を自給しえている国は外国の干渉を排除することができる
すこし前に「民俗学の旅/宮本常一」でも『民俗学の旅』一人一人がそれぞれの立場で平和のためのなさねばならぬことをなし、お互いがどこへいっても自分の是とすることを主張し、話しあえる自主性を持つことであり、周囲の国々の駆け引きに下手にまきこまれないようにすることであろう。そしてそれを農民の立場から主張していくには、食料の自給をはかることではないかと考えた。食料を自給しえている国は外国の干渉を排除することができる。それは今日までの歴史を見ればおのずから肯定できる。宮本常一『民俗学の旅』
こう書く宮本さんは戦中から、敗戦後の日本の食糧事情を考えて、各地の農家の協力を得ようと各地を奔走するわけです。
宮本さんは別の本でもこう書いています(「塩の道/宮本常一」)。
戦国時代というのは約100年ほど戦争が続くのですが、100年も戦争が続いた中でみんなが餓死したかというと、そういうことはほとんどありません。ということは、ちゃんと穀物を作る人たちがいたということです。ずいぶん食べ物の質も悪くなっていますが、それでもとにかく食いつなぐことができた。そして戦争する者は戦争をしていた。戦争する者と、それから耕作する者と、それが別々であった。つまり、農村社会というものと武家社会とは別々の世界であったということがわかるわけです。宮本常一「日本人と食べ物」『塩の道』
こうした事情を宮本さんは中国の人口と比較している。日本の人口がほぼ漸増しているのに対して、中国の人口というのは前漢の時代の人口6000万人が後漢では1500万人になったり、さらに三国期になると600万人に減ったりと、戦争のあいだの食糧対策ができなかったために人口の増減がみられた。日本のように、戦争する人と耕作する人が別々の社会を作っているという状態ではなかった。そうした歴史を踏まえて、戦中に食糧自給体制を築くための奔走なわけです。
間違ったWin-Win
こうしたことを踏まえて、現在の日本の食糧自給率40%というのは、かなり残念ではないか、と。日本のWebが残念だのなんだのという議論が流行ってるみたいですが、そもそもワールワイドを志向していて各国での自給自足を想定していないWebというものにおいて、「日本のWeb」が残念であるかどうかはそう大した問題ではないと思います。
もちろん、日本のWebを作っている人が自分たちも頑張っていこうという心意気においては理解できますし、それは大事なことだと思います。ただ、そもそもの議論の端緒となった梅田さんのインタビューを読むと、別に日本のWebが残念ということを言いたいのではなく、将棋の話をしようとしていたのにそれを聞いてくれない日本のWebメディアの姿勢が残念と言っているようにも解釈できます。
そりゃ、そうですよね。芸能人が出演した映画の発表会見の席で、まったく無関係な恋愛関係の話とかされちゃうのとおなじですから、聞かれたほうはうんざりですよね。将棋の本の会見で、なんでWebの話をせにゃならんの?という感じでしょう。
芸能ニュースが出演した映画そのものの話題ではなく恋愛ネタに走ってしまうのとおなじように、Web系のニュースは何でもWebのネタに持ち込んでしまうという閉塞感がある。WebのなかでWebのネタが、ブログ上のブログのことばかりが語られてしまうという閉塞感は確かに、将棋について語ろうとしている人には残念でしょう。
あのインタビューってそういうコンテキストを理解したうえで「残念」ということばを理解しないと意味がないんじゃないんでしょうか。つまり、WebがWeb以外のもの(例えば「将棋」)をちゃんと取り込めるか、Webそのものは利用しても、特にそれ自体に関心がない層にも議論が可能な場を提供できているか、です。
よくWin-Winとかいいますが、大抵の場合、閉じたコミュニティ内でのWin-Winができているかどうかになってしまっていて、そのコミュニティの外の人に負の影響にあってもそれを無視してしまう傾向があるように思います。相手との関係性においてはWin-Winでも、その関係性とは無関係な第3者にとっては大きなLostがあっても気にしないような、間違ったWin-Winのための取り組みが非常に多くなっている。そこでは将棋の話は排除されてしまう。
Webのなかの人がWebそのものについて残念か/残念でないかを議論してしまうのは、まさにそうしたWin-Winの話に近い。まさにコミュニティの外の人からすれば、日本のWeb? それっておいしいの?って話になってしまいます。
コミュニティ内部でのWin-Winに固執し、それに向けての努力をすればするほど、コミュニティ外部のLostが大きくなってしまう。そのことに気づかずにWin-Winという正義が振りかざされてしまうから、よけいに残念になってしまう。
僕がいままでこの議論をスルーしていたのも、それが理由だったりします。
僕らは日々、自分自身のなかの一部を殺し続けながら生きているのではないか
だいぶ話がそれましたが、日本の食糧事情の問題というのも、結局、そうした力のあるコミュニティ(歴史的にいえば工業やIT技術をつかった産業)が力のないコミュニティを意識の外に追いやった形で、コミュニティ内部のWin-Winばかりを志向してきた結果なのかな、と最近強く感じます。僕自身は特に食糧問題に対してすごく興味をもっているわけではないのですが、それでも力のあるコミュニティが食糧問題と同様に排除してきた、手仕事や地域の文化の破壊に関しては、これまでのこのブログで何度か言及しているように関心をもっています(例えば1年半ほど前に書いた「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」とか「身体の一部としての道具という発想」「文化が「用」と「形」を媒介する」「勤労・勤勉が可能な社会」「自然の力にあやかる」など)。
食糧を生産するという本来、その土地の気候や土壌などの自然環境、その地の労働力、そして、それと大きく関係している文化、人びとの生きるモチベーションと深く関係した部分を、意識の外に追いやってしまって、それがグローバル化だかなんだかわからないものに浸食されていることに平気でいる感性に疑問を感じてしまいます。
新しい本『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』
あとで川田順造さんの『もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る』
自分たち自身が日々食料を食べて生きていかなくてはいけないのに、その食料を生み出すコミュニティを排除してしまったり、日本のWebが云々というためにはその基盤として「日本」というものがある程度の力をもっていなくてはいけないのはずなのに、その「日本」そのものの文化的力、経済的力の根源的なリソースを枯渇させるようなベクトルで、日々を生きてしまっているのではないか、と。
〈人間〉の再定義
というようなことを書いてみても、僕自身、自分のこれからの身の振り方そのもの(生き方、仕事、社会と自分の関係性など)にもすごく迷いがあるのと平行して、こうした問題に関して何か答えをもっているわけではありません。宮本さん同様に「進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないか」と考えながら、今までの自分の活動の延長として「人間とは何か」ということを考えていこうと思うくらいです。いわゆるデジタル機器のインターフェイスへの興味ではなく、社会と人間、人間同士、そして、生きる環境そのものと人間とのインターフェイスのほうに興味の方向がシフトしているし、そちらの残念さをどうにかしていかないといくにはどう自分が働いていけばよいかを考えていかなくてはならないと思っています。「人間中心のデザイン」という場合でも、そもそも、その中心となる「人間」の再定義をしていかなくてはならないと考えます。
遠い昔にそうであったように、他の創造物との均衡を保ちながら生きる。そのことに人間が、いつの日か同意するのを期待するだけでは不十分です。私たちの子孫がそのような均衡を達成するには、事前に、しかも早急にやるべきことがあります。ここ3世紀、他の生き物から人間を孤立させてきた人権の定義を、再構築する作業です。クロード・レヴィ=ストロース「〈人権〉の再定義」『百年の愚行』
他の生き物から人間を孤立させてWin-Winを語っても仕方ないし、「グローバル」や「日本」という大きなコミュニティだけのWin-Winを志向し小さな地方のコミュニティをないがしろにした議論や活動だけではいかがなものか、と。
と思いきって書いてみましたが、なんとなくしんどい表明をして、自分に重たい荷物を背負わせてますね、このエントリー。笑
まぁ、いいか。意思表明して、自分自身で努力を怠らなければ、それなりに何かとつながっていくだろうし。
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