『自由は進化する』ダニエル・C・デネット

ダニエル・C・デネットの『自由は進化する』をようやく読み終えた。
はじめは結構、難解な本だなと感じていたが、読み進めていくうちにおもしろく読めるようになった。
山形浩生の訳も慣れてくると結構読みやすい(まぁ、これに関しては「好み」はあるだろうけど)。
とにかくおすすめの本だ。
なぜ、おすすめかは長くなるが、下記を読んでいただきたい。

さて、この本は、山形氏が訳者解説でも簡潔に示してくれているように「自由についての本だ」。とはいえ、自由というものは、普段、僕たちが思っているほど、単純なものではない。
デネット自身は次のような言葉で、本書の狙いを定義している。

人間は責任を持つ存在で、自分の運命の主導者なのだけれど、それはわれわれの本質が実は魂だからだ、という人気のある考え方がある。(中略)でも自然科学の進歩のおかげで、物理法則に縛られない非物質的な魂という発想は、もう説得力がなくなってしまった。多くの人は、これが実に恐ろしい意味合いを持つと考えている。これだと人は実は「自由意志」なんか持ってないことになるから、何がどうなってもお構いなしということになる、と。本書の狙いは、なぜそういう考え方がまちがっているかを示すことだ。
『自由は進化する』より


デネットは、上記の狙いを達成するために、いわゆる自然科学のもたらしたさまざまな決定論的議論(例えば、ラプラスの悪魔、利己的遺伝子、ミーム、遺伝要因、環境要因、ユーザーイリュージョン説など)の自由意志を否定する様々な議論を潰すことをしつこく繰り返すとともに、自由意志があるっていうオカルティズム寄りの議論も丁寧に潰してくれる。
デネットは1991年に出版された『解明される意識』での姿勢同様に、本書でも徹頭徹尾、自然主義的な姿勢を保っている。

キャスパー君には、いったいどうして壁を通り抜けることも、落ちつつあるタオルを掴むことも、〈同じように〉出来るのだろう。心という代物には、あらゆる物理的尺度を自在にかわしながら、〈また同時に〉からだをコントロールしたりすることが、いったいどうして出来るのだろう。
『解明される意識』より

デネットは本書で決定論そのものを否定しない。ダーウィンの「奇妙な理由づけの倒錯」に従い、Cui bono?(誰が得をする?)という疑問を提示することで、進化の過程を丁寧に紐解きながら、伝統的な決定論と不可避性との結び付きの間違いを明らかにする。それにより説明責任を決定論者の側に投げ返すという戦略をとっている。
デネットの主張は、不可避性の概念は物理レベルに属するのではなく、設計レベルにあるというところにある。それゆえ、本書の5章以降では生命の進化から、人間の文化的、動的レベルでの設計の変遷を見ながら、設計レベルのイノベーションの歴史である進化を辿り、自由そのものの進化に焦点をあてている。

人は次に何をするか決める鳥の(そしてサルやイルカの)能力の上にもう1つ層を追加した。それは脳の解剖学的な層ではなく機能的な層で、脳の解剖学的こうぞの細かい細部によって、何らかの形で構成された仮想の層だ。人はお互いに何かしてくれと頼めるし、自分自身に何かしてくれと頼める。そして少なくとも時々は、そうした要求に素直に応じる。(中略)人は頼まれて何かができるだけじゃない。何をしているのか、なぜしているのかという問い合わせにも答えられる。理由を尋ね、答えるという行為に従事できるのだ。
『自由は進化する』より


何十億年も前の「生命が誕生したとき、生き方は1つしかなかった。Aをやるか死ぬか」だった頃から「今では選択肢がある。AかBかCかDをやるか、死ぬかだ」と自由の選択肢は確実に広がった。
最近のWeb2.0的な変化に則していえば、かつては一方的に情報を受けるだけだった人や企業も、情報を発信できる自由を得た。

選択肢が増えると自由の範囲は広がる。
犬より人のほうが可能なことの範囲は広い。犬も微生物より可能なことは多い。
しかし、犬には何故可能な選択肢から自分が選択したものを選んだ理由を説明することはできない。
可能なことができ、かつ、何故ほかの可能な選択肢ではなく、その選択肢を選んだのかを答えられることを自由という。

自分の意志で自由に決められる部分が増えるということは、自身の選択の結果に責任をとらなくてはならない範囲も広がるということだ。つまり、自分で自由にやったのなら、結果はすべて自業自得だということだ。
そこに現在、社会的に求められるような説明責任(アカウンタビリティ)も生まれる。

知らなかったで済むなら、それは一時的には楽なことかもしれない。
しかし、高度に人間ネットワーク化が進んだ現在の人間環境の設計レベルは、そうした責任逃れを選択するものが不利になって滅び(例えば、ソ連の崩壊、例えば、最近のライブドア)、責任を引き受けるものが栄えるよう進化している。

デネットは本書を次のような言葉で締めくくっている。

人間の自由がなぜ他の生物の自由より大きいかが理解できるし、この高い能力が道徳的な意味ある―ノーブレス・オブリージュ―を持つことも理解できる。人間は次に何をするか一番いい立場にいる。それはわれわれが最大の知識を持ち、従って未来についても最高の見通しを持っているからだ。未来の地球がわれわれに何を与えてくれるかは、われわれみんなが共にどう根拠づけて先に進むかで決まってくるのだ。
『自由は進化する』より


この言葉を読むと、最近の山形浩生の訳書の傾向がなんとなくつながる気がする。
『環境危機をあおってはいけない』、『CODE』『コモンズ』をはじめとするレッシグの著作、『クルーグマン教授のニッポン経済』など。これらってこのデネットの『自由は進化する』を読むと、なんとなく同根の問題だという気がしてくるのだ。

つまり、こうした問題は、外的・内的危険への防御や、個体および種の延命を、様々なレベルで達成して獲得した自由のレベルをさらに一歩拡大するための設計の苦悩だということではないだろうかと思えるのだ。



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この記事へのコメント

  • おおくぼ

    はじめまして

    トラック・バックありがとうございます。
    私も山形浩生さんの翻訳をたくさん読んでいます。山形浩生さんが翻訳しなければ、読むことはなかっただろう本がほとんです。いい翻訳といい解説は輸入大国日本にとっては重要だと思います。
    2006年01月25日 11:17
  • chocolatier > おおくぼさんへ

    コメントありがとうございます。

    僕は以前は山形さんの訳が苦手だったんですが、山形さんの意図というか、興味の方向がなんとなくつかめるようになってからは、苦手意識がなくなりました。

    次に読もうと思っているのは、同じく山形さん翻訳のレッシグの「Free Culture」です。
    2006年01月25日 13:10
  • おおくぼ

    山形さんの訳が苦手な人は多いみたいですね。アマゾンの読者レビューを読むとよく見かけます。また山形さんの翻訳を、超訳みたいな「なんちゃちゃって訳」と勘違いする人もいるみたいですね。私から見ると、山形訳は神技のように感じれます。「どうして、こんなにわかりやすく訳し、わかりやすく解説できるのだろう?」という感じです。
    ところで私は応用倫理学を勉強して、その路線で「自由論」に興味持ちました。「自由と責任」は、昔からペアーで語られます。けれど、このデネット本の解説を読んで驚いたのは、「人間はシュミュレーションできる」というところです。これは「灯台本暗し」というか「コロンブスの卵」です。ここから「自由と責任」を結びつけるとは、すごい!
    ところで、『FREE CULTURE』はレッシグの中では一番わかりやすい本です、というか一番具体的に書かれいます。私は著作権を否定しませんし、必要な権利だと思ってます。けれど著作権の9割は死蔵しています。権利を声高に主張するより、人類の大いなる遺産の活用の仕方を考えるべきでしょう。
    2006年01月25日 20:51
  • おおくぼ

    あの上のコメントは読んでいただけたんでしょうか?
    f(^^;)
    私のコメントはかなり荒っぽいんですけど・・・
    2006年01月30日 09:56
  • chocolatier > おおくぼさんへ

    お返事遅くなりました。
    おかげでレッシグの『FREE CULTURE』も読み終ってます。
    デネットとレッシグの2冊の「自由」に関する本を続けて読むと「自由」ってものが人間が自由に進化も退化もさせることが可能な代物なんだってことがよくわかります。
    いまは続けてリチャード・ドーキンスの『盲目の時計職人』を読んでますが、まさに自由に関する人間の設計の仕方って行きあたりばったりで計画も何もないダーウィニズム的な進化の延長にあるのがわかります。
    先に自由に進化/退化することができると書きましたがこの無責任さはむしろ不自由ですね。
    2006年01月31日 01:17

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