日本人は独自な美をわれわれの生活の中から見つけてきておりますが、それはじつは生活の立て方の中にあるのだといってよいのではないかと思います。生活を立てるというのは、どういうことなのだろうかというと、自分らの周囲にある環境に対して、どう対応していったか。また、対決していったか。さらにはそれを思案と行動のうえで、どのようにとらえていったか。つまり自然や環境のかかわりあいのしかたの中に生まれでてきたものが、われわれにとっての生活のためのデザインではないだろうかと、こう考えております。宮本常一『塩の道』
「残念なデザイン。」から「デザインをする人に求められる資質」まで、yusukeさんとやりとりさせてもらいながら、僕のデザインというものの捉え方をすこし書いてみましたが、基本的に僕の捉え方は、この宮本常一さんの捉え方とおなじです。
つまり、デザインは人間が生活をどう捉えたかということの中から生まれてくるものだと思っています。
それはyusukeさんが「意味と技術から物を作るってこと」で引用している深澤直人さんの、
そのものの内側から出る適正な力の美を「張り」といい、そのものに外側から加わる圧力のことを「選択圧」という。
ということばにもつながります。
物そのものが現実にあろうとする力が内からの「張り」となり、生活がそれに外から「選択圧」をかける。この内と外とのバランスを、人間の生活のなかでの意味の理解をもとに決定するのがデザインをする人の知的活動だと思っています。
暮らしの形と美
宮本常一さんは『塩の道』のなかの「暮らしの形と美」という章で、このことを具体的な日本人の生活の歴史に即して考察されています。- 雑草の繁茂する日本の環境において発達した、手前に引いて使う鍬という農具やその鍬で耕される小さな田んぼというデザインの関係
- さらに、鎌やノコギリでも手前に引いて使うようにデザインされたこと
- 真っ直ぐに伸びる杉を材料として使うために発達した直線を巧みに利用した家屋のデザインと、その直線を効率的にひくために生まれた墨縄(墨壺)
- 畳の発明と座る文化、和紙の発明から明かり障子の発明へ
- 毛皮やなめした皮を着る文化に対して、植物繊維の織物を着る文化。稲からでる藁や竹を編んで道具とする文化
などなど。日本における農耕の発達や、南方から渡ってきた人びとがもたらした高床式の住居が寒い日本に浸透する際に寒さをしのぐための蔀戸やふすま、障子戸などを必要としたこと、杉や竹、藁、藍などの自然素材をたくみに利用したものづくり、そして、生活様式そのもののデザインについて、日本各地を歩いてまわって人びとの生活にふれた宮本さんならではの視点で考察されています。
目利きとフィールドワーク
「デザインをする人に求められる資質」でも書いたように、デザインする人には目利きの力が欠かせないと思っています。そして、その目利きの力とは、宮本さんがしたようにフィールドワークにより実際にいろんな人びとの生活をみることによって養われるものだと思っています。『デザイン思考の仕事術』
僕は西行や芭蕉のような歌人や俳人が日本各地を遊行してまわったり、折口信夫さんや宮本常一さんの民俗学者や柳宗悦さんのような人が全国をフィールドワークしてまわったりしたのも、結局のところ、自分の世界の外に出て、好みをスクリーニングするために必要なことだったのだと考えています。千利休や骨董の目利きで知られる青山二郎さんがたくさんの器に接したのも同じことでしょう。拙著『デザイン思考の仕事術』
と書いています。目利きの力を養うにはまずさまざまなものをみて自分の好みをスクリーニングする必要がある。もちろん、宮本常一さんが全国を歩き回ったのは、自分の好みをスクリーニングするためではなかったと思いますが、そうしたライフワークが結局、目利きの力を養ったのだと思います。
その意味では目利きの力は目的ではなく、生きるという別の目的についてくる結果なのかもしれません。この『塩の道』にしてもそうですが、宮本常一さんの本を読んでいるとそういう人びとの生きるという活動、生活のことをあらためて見つめなおすきっかけになります。
塩の道
『塩の道』は先にも紹介した「暮らしの形と美」という章のほかに、「塩の道」「日本人と食べもの」の3章からなる1冊です。そこでは人間が生きるために必要な、食の確保、そのために必要な労働、そして、食材の交換、そのための交通路、流通の方法、あるいは、そうしたものが混ざり合いながら生まれてくる文化というものを、実際のフィールドワークに基づいた形で非常にわかりやすいことばで紹介してくれています。
生きるということ自体から知恵が生まれてくる様子がそこからは浮かび上がってくる。苦労の末に生きた知恵が生まれてくる様子がそこにはあります。
その知恵のひとつが「生活のためのデザイン」なんですね。例えば、鍬というもののデザインひとつとってみても、そうした生きることに関わる諸々の関係性のなかにあるわけです。それが外からの「選択圧」となるとイメージできてているかどうかでデザインの厚みは相当違ってきます。
それはとうぜん単純にかっこいいことを目指したデザインとは一線を画します。かといって、単に機能的なデザインになってしまうのではなく、生活にぬくもりをもたらしてくれるような意匠的な配慮もつつましく施されてもいる。
それが各地域の生活に寄り添うようにして生まれ存在しているんですね。生活があってはじめてデザインがある。決して、その逆ではないし、デザインが生活から切り離されて独立してしまっているなんていうことはない。そこではわざわざペルソナなんてことを考えなくても、デザインは自然と人間中心となっているわけです。
僕らの生活はすでにそこから随分離れたところに存在しているわけですが、それでもそういう生活とデザインが一体になった文化があったことを知っているのと知らないのとではデザインへの関わり方も大きく違ってくるのではないかと思います。
デザインに関わる方は、ぜひ宮本さんの本を読んでみることをおすすめします。
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