残念なデザイン。

うーん。これはいま実感としてすごく感じているところ。

残念なデザイナは、往々にして表面だけの議論をしたがります。「この曲線が美しい」とか。うん、そんなのね、どーでもいいの。こういうヒトは誰かの真似をした"もっともらしい"表面を並び立てるだけ。"なんだか"格好いいけど、深みがない。そして、なによりも応用が利かないから、提案としてとても打たれ弱い。

なんだか格好いいけど、深みがないデザインって、本当に残念だということを、いま個人的に身にしみて感じているところです。

上記のエントリーでは、「表面」に対して「構造」の重要性が述べられていますが、僕はその「構造」の部分を「意味」と言い換えたい。

意味を混乱させるデザイン

その物がもつ「意味」を表現できていない残念なデザインが多すぎる。いや、表現できないどころか、意味を混乱させてしまうことさえあります。
そして、いまそのことにすごく悩まされています。ホント、泣きそうになるくらい。

「意味」をきちんと表現できないなら、もはやデザインではないはずです。しかも、物がもつ「意味」を混乱させるならデザインする必要はない。そんなデザインなら、何にも手を加えない素材のままのほうがマシなこともあります。

他人をがっかりさせるデザイン

デザインってスキルうんぬんの前に、他人に対して関心がもてるかだったり、他人に対して敬意をもったり、他人に意味が伝わるにはどうすればよいかと考え工夫するやさしさだと思うんですよね。

センスを感じない人の仕事は往々にして「表面」に終始してしまいます。

ほんとにまさにそのとおりです。センスを感じない人の仕事は、他人への配慮を感じさせない。いや、それどころか、その人自身の頭のなかでの意味の組み立てを感じさせません。論理的な意味、感覚的な意味も。意味=センスです。

そんな風にセンスがなく、ただの見た目のかっこよさしか頭にないのなら、デザインなんかに関わらないほうがいいと思います。それはいろんな人びとをがっかりさせるだけの行為だから。

物心は二相ではなく不二である

もっといえば表面と構造は、本来的には別のものではありません。いまのものの作り方では別の工程で扱っているだけで、たとえば僕が好きな民藝の器なら構造も表面も一体化しています。

それはそのまま「用の美」において機能的"用"と美的"用"が不二であることにもつながります。

用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。

作業工程が別々に分かれているからといって、表面と構造が、機能とスタイルが別物だと勘違いしてはいけません。自分のセンス=感覚にすなおであれば、表面と構造、機能とスタイルが分けられるものではないことに、とうぜん、気づいてよいはずです。もし、それに気づかないのであれば、結局、物も人もちゃんと自分の感覚でみることができていないという証拠でしょう。

あー、それにしても、ほんとうにがっかりです。残念すぎます。
僕の貴重な時間を返してほしいと、愚痴もいいたくなります。

 

この記事へのコメント

  • yusuke

    あぁ、そういう人と仕事するのはつらいですよね。しかも、「作っちゃったんで」とか言われると。
    知的労働って、そのものがデザイン行為。製造業の設計書のように"ちゃんとやれば機械的に生産可能な書類"っていわれると、実は最終成果物そのものなんですよね。
    2009年05月31日 22:44
  • tanahashi

    > yusukeさん、

    いいますね、そういう人は。
    「作っちゃったんで」ってw。

    知的労働って、そのものがデザイン行為。
    まさにそのとおりですね。
    もちろん、それは職業的な仕事に限った話ではなくて、
    生きるためにする仕事すべてがデザイン行為だと気づくかどうかで、
    人生が美しく有益なものにもなれば、その反対にもなりますよね。
    2009年05月31日 23:20
  • テム

    はじめまして。
    デザインしたい物への理解力が大事なんだと思います。そうした力があれば装飾はまずは二の次になると思います。
    自分は商品に触れてみてデザイナーの配慮にふとした時に気付いてニヤリとしたいですね。
    それでは。
    2009年06月04日 01:13

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