文化が「用」と「形」を媒介する

昨夜の「日本語ということばを使う日本人」に引き続き、6/18発売予定の『デザイン思考の仕事術』のボツ原稿より・・・。

人と物との関係でも、人間同士の関係でも、そこに親しみをもった接点が生まれるためには、その間に何がしかの知覚可能な媒介が必要になります。それは言葉であることもあれば、音楽や絵だったりすることもあれば、デザインされた物であることもあるでしょう。

文化が「用」と「形」を媒介する

そうした接点の媒介になる物には何らかの機能をもっているということもいえるでしょう。機能あるいは用途。柳宗悦さんの「用の美」の話はしましたよね。「用途を離れては、器の生命は失せる」と柳さんは『工藝の美』に書いています。日常使いのために制作された器にこそ美は宿るのであって、茶人の趣味にあわせて作られた器は美から離れると柳さんはいっています。

実は似たようなことは西洋においてもいわれています。「形態は機能に従う」。機能主義の有名なテーゼです。でも、日本でも西洋でも同じようなことが言われているのに、食器の形は必ずしも日本と西洋では同じではないですよね。ともに機能=用に従っているはずなのに、器の形は違ってくる。

その要因のひとつには食文化そのものの違いがあるでしょう。西洋では食器を手に持ちませんが、日本では器を手にして食べます。また、それぞれの地域での素材や技術の違いがある。それが同じような機能をもつ食器の形態を別のものにしている。つまり、機能または用途と形態というのは実は無媒介につながっているのではなくて、文化を介してつながっているんですね。

ユニバーサルデザインとマーケティング

用が文化を介して形態を要請することもあれば、逆に形態が文化をつくり用=価値を固定化し因習を生み出すこともある。この文化というものを忘れて機能と形態を結びつけようとすると、人と物との関係がうまくいかなくなるケースがあるんですね。

西洋近代が生みだしたモダンデザインをユニバーサルなデザインだと信じて受け入れた結果、世界のあちこちでそれまでの文化の破壊が起こったことなどはその最たるものです(このあたりの話は「モダンデザインの歴史をざっと概観する1」参照)。機能と形態が本来それを結びつけるはずの文化を排除してしまえば、その両者は互いに自律的なものとなってしまいます。
つまり、必ずしも形態は機能に従わなくいいことになる。そのとき、中身は同じでも外見だけ変えて新商品として売り出すようなマーケティング的発想のデザインが可能になってきます。

そうなると、各地域で長年育んできた生活文化を媒介として機能と形態を結びつけるものであったデザインが完全に、文化とは無関係な市場の論理によって形態をめまぐるしく変化させる方法になる。そこではもう人びとの生活などはおかまいなしに、茶人趣味の器同様、用とはかけ離れたところで表面的な美的価値によってのみ、お化粧直しのデザインが乱発されるようになってきます。広告や製品カタログの物の背景が消えていきます。

富の再定義

さらにそこから、物はたくさん所有して、次々と消費して買い替えることが富であるかのような錯覚が生まれてきます。その富は生き延びることはもちろん、生活することとも、生き方とも無関係で、ひたすら市場の論理とのみ手を組んでいます。そして、市場の無計画性ゆえに物は必要以上に生み出され、地上を隙間なく人工物が埋め尽くすことになる。とうぜん、そこに果たしてこれが富なのかという疑問も生じてきますよね。富の再定義が行われるようになります。

例えば、天才的なエンジニア、建築家として知られるバックミンスター・フラーは『宇宙船地球号操縦マニュアル』という有名な本で、富という物を

代謝的、超物質的再生に関して、物質的に規定されたある時間と空間の解放レベルを維持するために、私たちがある数の人間のために具体的に準備できた未来の日数
バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』

だと定義しています。富を個人や私企業、国などの単位でとらえるのではなく、地球単位であとどれだけ人間が精神的にも物質的にも健やかに暮らしていけるかどうかという視点でとらえています。

物事を包括的にとらえる資質

フラーは、その富を増やすためには、それぞれが専門領域に固執するのではなく、包括的な視点で物事をとらえる資質をそれぞれが身につけていく必要があると説いています。
1968年に書かれた本です。もう40年も前。ちょうどその頃には商業デザインへと堕してしまったモダンデザインに対する批判も噴出しはじめた頃です。「宇宙船地球号」という言葉だけは有名になりましたけど、フラーがその本で語った「物事を包括的にとらえる資質」の重要性はちっとも共有されないままです。また、同じ本で「絶滅は過度の専門分化の結果である」と鳴らした警鐘も無視された状態で、むしろ、ますます専門分化するほうに進んでいますよね。

デザインというのは、本来、「物事を包括的にとらえる資質」を最大限活かして物事を組み立てていく力であったはずなんですね。

例えば、ヨーロッパのデザイナーは伝統的に特定の製品カテゴリーに縛られることが少ないですし、建築家でもある人が多いですよね。建築家もひとつの建物を作るだけでなく、都市計画なども手掛ける人が多い。あとで紹介するイタリアのデザイナー兼建築家であったアキッレ・カスティリオーニなんかもそうです。何をデザインするかといった専門領域ごとのデザインの方法を云々する前に、すべてのデザインという行為の基礎になる部分の方法論や研究がより必要になってきているといえるでしょう。

ここまでお話してきたような利用者の生活を監査することを中心とした「情報整理術」も、KJ法などを用いてアブダクションを行う「企画発想法」もデザイン思考の基礎的な方法論の一部ですが、それに加えて今回はそうした過程を経て浮かび上がった人びとの問題を実際に解決する方法を考えるための「問題解決法」を紹介していきます・・・。

品のないデザイン

うーん。あらためて読んでみると、この部分をボツにしてよかったんだろうか?と思えてきます。

最近、かっこよさとか個性とか売れるためとか、そんなものを目指しすぎて品のないデザインが多いのが目についてがっかりすることが増えています。それもこれも自分たちの文化と形の関係がわからなくなってしまっているところが大きいのかな、と。
文化というのは、生きることそのものです。その生きることと形の関係が見失われてしまっているために、品のないデザインばかりとなってしまっています。ほんと、あきれるほどに。
文化と経済が別々のものとして切り離されてしまっているところに、生きることの混迷がある。そして形からも、それに触れる人間の感性からも品が失われています。

なぜ上代において人々は醜い字を有ち得なかったか、なぜ近代において多くの者が悪筆に悩んでいるのか。これはひとり書のみの問題ではない。汎く美の問題ではないか。美しいもの以外に生めなかった時代の不思議を想う。
柳宗悦『茶と美』

「美しいもの以外に生めなかった時代」ですよ。
うーん、このあたりの話は別の機会に、本にまとめられればよいなと思っています。

   

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