日本語ということばを使う日本人

あまりに多忙すぎて最近はブログを書くヒマがありません。
寝不足です。
各駅停車どころか遅延が発生しています。やっぱり計画が大事です。

というわけで、6/18発売予定の『デザイン思考の仕事術』のために書いた原稿から、文字数の関係でボツにしたものをエントリーの代わりに・・・。

川喜田二郎さんも書いていることですが、日本人というのは頭の中だけで処理できる量の情報を相手にして、勘をはたらかせて雑然とした情報を統合的に処理するというのは得意です。だからこそ俳句や盆栽などの小さな世界に情報を圧縮してみせる文化も生まれ発達してきました。

ただ、頭の中での圧縮作業が得意だからこそ、逆に手間をかけて情報を圧縮するということが苦手だったりします。パッと見ただけでは処理しきれない量や複雑さをもった情報群を前にすると、途端になす術をなくしてしまうという欠点もあります。KJ法のような作業をめんどうと感じるのも、そうした苦手意識が影響しているのだろうなと思います。

日本語ということばを使う日本人

日本人のコミュニケーションの歴史を振り返ってみると、なぜ日本人にそうした傾向があるのかがなんとなくわかります。

古代日本は長いあいだ、文字のないオーラル・コミュニケーションを続けていました。
文字がないコミュニケーションはそれがあるコミュニケーションと何が違うかわかりますか? そう。記憶の仕方の工夫がまるで違うんですね。文字による記録のように外部に記憶を委ねることがむずかしいので、人間の身体のほうに記憶をとどめられるような工夫が必要になる。文字のない世界ではどこでもそうでしたが、記憶をしやすいよう物語や歌などの方法が発達してきます。語り部といった職能を生まれてきますし、多くの記憶をもった老人が重んじられています。当然、ことばそのものも記憶しやすく、記憶を喚起しやすいものになっていきました。音そのもののなかに記憶の連鎖をもたらすような表意性をもっていたのです。

音の表意性

ここで音の表意性といっているのは、植物の花(はな)ということばの音である「はな」と、「端っから」という場合の「はな」の音とが、どちらも先端という意味でつながっていたり、訪(おとず)れが当初神様の来訪のしるしと考えられた音連(おとづ)れの意味をいまだに残していたりすることなどを指します。

デザインに関係するところでは、計画するという意味での計(はか)る、大きさや重さを測定する意味での測(はか)るなどの「はか」はもともと田んぼの稲を植えたり収穫する際の仕事量をあらわす単位だったといいます。そこから計る、測る、図る、量るといった意味が派生した。「はかがいく」「はかどる」「おしはかる」なんてことばもありますね。
さらに計ることができないという意味から、はかないということばも生じました。どうなるのか計ることができないことにはかなさを感じる。それが空しさや無常観にもつながっていき、日本文化におけるわびやさびといった価値観にもつながっていく。計画性のないデザインもはかないですよね。デザインに関しては計(はか)がないのはいけません。

こんな具合にオーラル・コミュニケーションのなかで育まれた日本のことばは、その音のなかに表意性を宿しているんですね。

表意文字

そうしたオーラル・コミュニケーションで成り立っていた世界に、中国から漢字が伝わってくる。音だけで成り立っていたことばの世界に記録として残る文字が導入されます。しかも、日本に伝わってきたのはアルファベットのような表音文字ではなく、表意文字である漢字でした。

漢字という象形性をもった文字は、千分の一秒で認識が可能だといわれています。一秒間に七文字読めるくらい瞬間把握力に優れた文字であるそうです。しかも、それは漢字を日常使い慣れている人だけに意味のある象形性ではないようです。ドイツの詩人リルケは俳句の研究も行っていて日本の文字も書けたそうですが、そのリルケが漢字をみたことがないドイツ人に「薔薇」という字を書いてみせて何の花をあらわす文字か当ててみろというと、十中八九バラという答えが返ってきたそうです。「葡萄」でも同じ結果だったらしい。これは結構すごいですよね。”rose”や” grapes”ではきっとおなじことは起こりませんから。

訓読みという独自の方法

こうした表意性をもった漢字ですが、日本ではその導入の仕方に、他のアジアの国々とは違った日本独自の工夫がありました。おなじように漢字を導入したアジアの国々は漢字の音をそのまま借りて自国のことばにあてはめましたが、日本では訓読みという独自の方法が生み出されたのです。漢字がもともともつ意味と自国で長いあいだオーラル・コミュニケーションによって育んできたことばの音を両立させた。いま漢字に音読みと訓読みがありますよね。その訓読みという方法を日本は独自につくったのです。ほかのアジアの国々は漢字を音読みだけに使ったんですね。

この訓読みという発明は画期的でした。
もともと長いあいだかけて育んできたオーラル・コミュニケーションのことばがもっていた音による表意性・記憶の喚起力の体系をそのままに、きわめて視認性の高い文字である漢字と組み合わせたのですから。そのことで他のどの言語にもないようなきわめて表意性の高いことばができあがった。これは日本史上最大の発明でしょう。

コンテキストへの依存性

先にも述べた日本人が雑然とした情報でもある程度の量なら勘をはたらかせて統合的に処理することが得意という特性も、この日本語のことばそのものがもつ表意性の高さと無関係ではないはずです。音や文字がある程度はイメージの連鎖を自動的に引き起こすようになっているからです。

日本語では、おなじ漢字でもたとえば朝飯と朝食で「あさ」と「ちょう」で読み違えることができるし、どちらの音でも「朝」という字を思い浮かべておなじ朝のイメージを思い浮かべることができます。「あめ」という音から、「雨」という字を思い浮かべることもできれば「天」という字を思い浮かべることができる。

ただ、その代わりに、おなじ文字でもどう読めばいいかがコンテキストにあたらなければわからないといった具合に文脈依存性が高すぎるので、アルファベットのようにその語のことばを知らなくてもなんとなく読めるということがすくない。また、文脈依存性の高さとイメージ喚起力に優れている点が裏目にでて、数学のような抽象的な思考が生まれにくかったということもあると思います。

日本語と文化とデザイン思考

いずれにせよ、僕らはそうした他に類をみない特性をもった日本語ということばを日々使って生きているのだということを、ちゃんと理解しておいたほうがいいと思います。そのことばが僕らの生活、思考、文化をある程度は既定していて、メリットにもなればデメリットにもなっているのですから。

デザイン思考では人間のことを知っておく必要があるといいましたが、こうしたこともそのひとつなんですね。自分たちが何が得意で、何が苦手なのかをわかっていれば、得意な面を活かす方向にも、苦手な面をどうにか補う方向に手立てを考えることもできるのですから。

・・・と、日本人がなぜKJ法が苦手なのかというところの説明として書いた部分ですが、分量の関係で泣く泣くボツにした箇所です。
もったいないのでブログのエントリーにさせていただきました。

しばらくはこの多忙な状態が続くので、この形式でボツにした部分をアップしていこうか、と。



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