グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで/戈木クレイグヒル滋子

フィールドワークやコンテキスチュアル・インクワイアリーなどの質的調査(定性調査)で集めたデータをいかに分析するかは、人間中心のデザインを進めるうえでもひとつの課題です。

僕自身は、ワークモデル分析や、KJ法(発想法)を使って、質的データの分析を行い、そこで明らかになったユーザーの利用状況や潜在的ニーズをペルソナなどの表現方法を用いて使っています。
ただ、KJ法はやり方がブラックボックスになってしまっているところがあり、いまひとつ初心者にやり方を説明するのに苦労していました。

そんなこともあって以前から気になっていたのが、グラウンデッド・セオリー・アプローチという質的データの分析の方法。そこで戈木クレイグヒル滋子さんの『グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで』を読んでみることにしました。

グラウンデッド・セオリー・アプローチとは

グラウンデッド・セオリー・アプローチは社会学者のグレイザーとストラウスによって提唱された質的研究法です。どういう方法かというと、著者がこう書いています。

グラウンデッド・セオリー・アプローチは、データに基づいて(grounded)分析を進め、データから概念を抽出し、概念同士の関係づけによって研究領域に密着した理論を生成しようとする研究方法です。

また、グラウンデッド・セオリー・アプローチはその背景となる理論として、人は社会的相互作用の中で対象を意味づけて行動し、その意味は、相互作用の過程の中で修正されるものだと考えるシンボリック相互作用論をもっています。
グラウンデッド・セオリー・アプローチはこの相互作用のなかで動く人びとの社会的活動を理論化する方法なんですね。とうぜん、これはおなじように人びとの活動を対象との相互作用としてとらえる人間中心のデザインにも応用可能なはずです。

グラウンデッド・セオリー・アプローチの作業の流れ

グラウンデッド・セオリー・アプローチによるデータ分析の流れは次のように示されます。

  • データの読み込み
  • コーディング
    • データの切片化
    • オープン・コーディング
    • アクシャル・コーディング
    • セレクティブ・コーディング
  • 理論的飽和

データをよく読みこんだうえで、データを細かく分断する作業(切片化)を行うのは、KJ法とも類似しています。ただ、そのあとのオープン・コーディングと呼ばれる作業が、KJ法にはないグラウンデッド・セオリー・アプローチ独特のものです。

オープン・コーディングでは、切り分けられたそれぞれの切片部分だけを読んでプロパティとディメンションを抽出します。そのあと、切片の内容を適切に表現すると思われる簡潔な名前(ラベル。抽象度が低い概念名)をつけます。データに関して可能な解釈をプロパティとディメンションとしてたくさんあげて、プロパティ、ディメンションに出ている単語を使って切片を検討しながらラベル名をつけます。

ここでいうプロパティとディメンションというのは、切片化したデータの属性とその値と考えてもらえばよいかと思います。たとえば、「高さ」というプロパティに対し「3.5cm」といったディメンションをつける。
〈学習とは、自分が学習したいという欲求を満たすべき「舞台の設定」によって、いきいきと駆動しはじめるのである。(松岡正剛『知の編集工学』)より引用〉という切片化されたデータがあれば、「学習欲求を満たすもの」というプロパティに対し「舞台の設定」といったディメンション、「学習欲求が満たされた結果」というプロパティに対し「学習がいきいきと駆動する」といったディメンションをつけるわけです。

このプロパティとディメンションをもとに、データにラベルをつけていく。KJ法ではあいまいだったデータの単位化の作業の方法が明確になっている点がよいなと思います。
それによってアナロジー思考を使ってデータの類似をとらえ、複数のデータをカテゴライズするのはKJ法と同様です。ただ、そこでもプロパティとディメンションを使うのは、グラウンデッド・セオリー・アプローチの特徴でしょうか。

つぎに、似たラベル同士をまとめて上位の概念であるカテゴリーをつくり、各カテゴリーに名前をつけます。(中略)カテゴリー名をプロパティとディメンション、ラベル名、もとのデータと見比べて適切かを確認します。ここまでの作業が、オープン・コーディングと呼ばれています。

このオープン・コーディングの作業を行った上で、1つのカテゴリーと複数のサブカテゴリーを関連づけて、いつ、どこで、だれが、どんな風に、何をしたかといった現象を表現するアクシャル・コーディングを行い、そのアクシャル・コーディングでつくった現象を集め、カテゴリー同士を関係づけるセレクティブ・コーディングの作業を行います。これがより大きい社会的現象を説明する理論となるわけです。

情報を動かすための「舞台の設定」

人間中心のデザインで、フィールドワークやコンテキスチュアル・インクワイアリーなどの方法を使ってユーザー調査を行うのは、人びとの生活における人工物の利用状況とその行動の背景に隠れた潜在的ニーズを理解するためです。ただし、調査で観察や聞き取りを通じて、情報を集めれば、それで即座に利用状況や潜在的ニーズの発見が行われたことになるかというと、そうではありません。
そこに至るためには、調査によって知り得た情報を分析して、推論を働かせて〈目の前にあるものから目の前にないものを生み出す思考〉を行う必要がある。すこし前に米盛裕二さんのを紹介したように、いかに情報をアナロジカルに動かし、そこにアブダクションを生起させるかだと思います。

それには頭のなかだけで考えていたのではどうにもなりません。「
情報摂取の場・過程・作法をみなおす」や「思考のプロセスの4段階と作業空間の関係」で書いたとおり、ある程度の量のあるデータ・情報を相手に思考を組み立てようと思えば、頭のなかの処理空間では作業スペースが狭すぎるのです。

学習とは、自分が学習したいという欲求を満たすべき「舞台の設定」によって、いきいきと駆動しはじめるのである。舞台というのは、記憶をしたり学習が進んだりするための、たとえば庭とか机のようなものをさす。そこで何がおこるかといえば、自分の学習の相手をすばやく見出し、その相手と対話するのだ。相手といっても実在の人物をさすわけではない。ノートの中の私でもいいし、となりのトトロでもいい、何でもが相手になりうる。

そう。学習のための舞台設定が必要です。
ワークモデル分析にしても、KJ法にしても、そして、このグラウンデッド・セオリー・アプローチにしても、質的調査を行った者がそのデータをもとに次の作業へつなげるための学習の舞台設定を提供してくれる方法だと、僕は思っています。

この本は、グラウンデッド・セオリー・アプローチがどういうものかを知るためには、非常にわかりやすいものです。特に、ワークモデル分析やKJ法をやったことがある人なら、なぜグラウンデッド・セオリー・アプローチがこうしたアプローチを行うのかはよくわかるはずです。

もちろん、レシピを知っているのと実際に料理ができるのとは違います。この本を読んだからといって、すぐにグラウンデッド・セオリー・アプローチができるようになるわけではないのは、ワークモデル分析やKJ法の方法を知っていても使えるとは限らないのとおなじ。この本を読んだらまず自分でやってみることが大事か、と。



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